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性欲と生きづらさと

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双極性障害と性欲の関係とは

双極性障害の人は、躁状態の時に性欲が旺盛になると言われています。

すなわち、うつ状態ではない気分がハイな時に、下半身の活動が極めて活発になり、例えばハプニングバーに行ったり、マッチングアプリで相手を探してはコトに及ぶというようなことです。


そういう人は当然のように、躁状態が終わると、自分の行動を激しく後悔します。


「また知らないおじさんとやってしまった」と嘆きつつ、手元にある 2万円が入った封筒をじっと眺めたりするのです。場合によっては、1周間ベッドから起き上がれないほどのうつ状態に陥ります。


さて、双極性障害における性欲は医学的にはよくわからないことが多いそうです。双極性障害に関する科学的知識はネット上にたくさん出回っていますが、それらを見る限り、明確なことが書かれていません。


他方で、哲学はあるていど、メンタルの状態と性欲の関係を、精神分析的に語ります。


たとえば、キルケゴール哲学を援用すれば、「反抗のセックス」という言葉が浮かびあがってきます。


「わたしはダメだ。生きていけない。もう死にたい」という自責的な「弱さの絶望」に対し、「神はなぜわたしをこんなふうにつくったのか! わたしはもっと要領よく生きる人間として生まれてきたかった」などと思う気持ちを「反抗」とキルケゴールは定義します。


うまれもった性格というのは、究極的には神がつくったものだから、神に対する反抗をキルケゴールは「反抗」と呼びます。


神に対して、もっともわかりやすいかたちで反抗しようとすれば、それはセックスでしょう。

マッチングアプリで知らないおじさんとセックスする女子に対して「自分のカラダを大事にしましょう」と説教する人がいますが、彼女は神に反抗している最中なのです。


躁鬱の躁とは神に対する反抗の時期。

他方、鬱とは自責的な時期。

両者がランダムに顕現するのが双極性障害。



上記以外の説明として、躁状態のときは「この自分=双極性障害のこのイヤな自分」を抜け出すチャンスだと思って、あらゆる可能性を試す、ということが言えます。


あらゆる可能性を試す、すなわち、自己破産するほど大量に買い物をするとか、あたらしい出会いを求めて出歩く、自分のことを生まれ変わらせてくれそうな相手とセックスをする・・・・


可能性とは無なのだ、と主張するキルケゴールも、じつは性欲旺盛だったと言われています。


彼もまた、躁のとき「女を買って」自分の可能性を試すことで神に反抗していたのかもしれません。


というわけで、科学の心理学が言及できない心の領域のお話でした。

性欲と自己肯定感の関係とは?

性欲について書いた原稿をネットに掲載するとgoogleが評価しない。検索順位を下げる。という傾向が常態化しています。


その事実のメタ情報として、性欲について考えるのは良くないことだ、性欲に蓋をしろ、というものがあります。


しかし、じつは、性欲に蓋をしてしまえば、自己肯定感が下がるのです。


私が知る限り、性欲と自己肯定感の関係について生涯をかけて考え抜いたのが、実存主義の父といわれているキルケゴールです。


彼は膨大な量の日記を書き残していますが、そこから類推されることとして、キルケゴールは非常に性欲が強かった。


しかし、その性欲を満たすことができなかった。


なぜなら、彼はエロい自分とものすごく真面目な自分の2人の自分を心の中に抱えており、しかし結果的に、(これは生まれ持ったものもあるはずですが)真面目な自分が前景化していたので、性欲を満たすことなく生涯を終えました。



ある種の女子のように、勉強もできて、親や学校の先生に好かれ、しかし放課後にイケメンの彼氏と下半身を満たしあい、それでも指定校推薦でマーチクラス以上の大学に行き、そこでも楽しく行為する相手を見つけて下半身も上半身も充実した大学生活を送り、名の通った一流企業に就職し、そこでも同じように上半身と下半身を満たし、29歳で華麗に結婚してゆく、という人を見れば、キルケゴールはおそらく、気が狂ったように嫉妬するでしょう。




さて、なぜ性欲と自己肯定感は深くつながっているのか?



性欲も自己肯定感もともに、「関係」という社会性をその根底に持っているからです。


例えば、強すぎる性欲を普段の生活の中で見せることができない人は、誰にも内緒でマッチングアプリで相手を探し、例えば仕事終わりに待ち合わせをし、みずからの性欲を満たしています。



そういう自分は社会的に隠されるべきものですから、彼・彼女は、誰にも言えない秘密を胸に抱えたまま生きることになります。



誰にも言えない秘密、すなわち「言えなさ」は、自己肯定感をダイレクトに下げます。



それを放置したまま上半身だけで自己肯定感をあげようとしても、どうしても無理があります。先に申し上げたとおり、自己肯定感は他者との関係に依存していますから、強すぎる性欲を隠したまま自己肯定感を上げるというのは、ブレーキを踏んだままアクセルを踏むのに等しい行為だからです。



ともあれ、「私は強すぎる性欲を持っています」とか、「私はじつは変態で〇〇という行為を一緒にできる相手を探しているのです」という気持ちを言葉にして誰かに伝える必要があります。



それはそういった類のコミュニティの中でもOKでしょう。



そして実際にそういう相手とそういう行為をすることによって、



「強すぎる性欲や変態なところを隠さなくてもいいのだ」


「それをわかってくれる他者がいるのだ」



と驚く。同時に、深い安心感が萌芽する。


驚きと安心を心底感じた時、私たちの自己肯定感は上がり始めます。



その意味で、たとえば女性用風俗で真剣に遊んでいる女子は、自己肯定感を高める入り口にいるといえます。

ブルマの呪縛 ~自己肯定感を上げるきっかけとは~

告白します。ぼくはブルマフェチです。しかも紺色限定。したがって、紺色のスクール水着にも萌えます。こちらは、へその形が浮き出る薄い素材のものに限る。


風俗店の「オプション」には「ブルマ」や「スクール水着」がある。

なるほど、ぼくだけがブルマフェチではないようです。



さて、48歳になってもなお、ブルマに萌える現象を、わたしはブルマの呪縛と呼んでいます。ブルマにがんじがらめにされて前に進めない、その進めなさを呪縛と呼んでいます。


その意味するところはなにか?


「女」というものにはじめて、いわば暴力的に、自分の世界を開かされた。つまり「世界にはこんなにも美しいものがあるのか!」と心底驚かされた。


それまで「子ども」の世界しか知らなかった私が、ブルマ姿の女子を窃視しようという意思なしに、向こうから勝手にやってきたブルマによって、世界を塗りかえられた。そして、世界のありように驚いた。


その驚きを今でも忘れられない。それくらい私が変態であるということ。否、それくらい驚きというものは人の認識を変えるものだということ。


驚きがその人の世界を形成するということ。


その証拠に、大人になって「ブルマプレイ」をしても、14歳の頃のように萌えないのです。目の前にいるドンキで買ったコスプレの紺色のブルマを穿いている女子は美しいが、あの頃のさちこちゃんのブルマ姿にはかなわない。それは別格のものであり、神聖なものなのです。ブルマにローションを加えてもさちこちゃんには遠く及ばない。


驚きが世界を変える。


これは自己肯定感にも言えます。


自己肯定感が低い人は思い込みの世界に住んでいます。
それが悪いのではありません。
だれだって「色眼鏡」をかけて世界を見ているのだから、それで「ふつう」です。


しかし、それでは自己肯定感が低く生きづらいのであれば、色眼鏡を捨てるしかない。


捨てる「きっかけ」は「驚き」です。


世界にはこんなにも美しいものが存在しているのか!

わたしのことを理解してくれる人がいるんだ!



驚きがあなたを明日へといざないます。


ああ、さちこのプリっとしたケツ、見たいな。

心理哲学に見る風俗嬢と風俗客の共通点とは?

心理哲学に見る風俗嬢と風俗客の共通点とは、ともに自己肯定感が低いということです。

すなわち、常になんか寂しいと思っている点です。


風俗嬢は「お金に困ってるから風俗嬢になった」と、一般に説明されています。もちろんそれもあるのでしょうが、金に困っていても風俗の仕事をするという発想すら浮かんでこない女子も世の中にはたくさんいます。

お金に困っているという目に見える直接的なきっかけをとおして実は、常になんかさみしいと思っている自分が顕在化しているのです。


ここでいう「なんかさみしい」というのは、自分の根っこがない、すなわち根無し草だということです。毒親に育てられたり、あるいはそもそも両親がいない人であれば、当然のように自分の根っこが分からないわけですから、常になんかさみしいと思って当然といえば当然でしょう。



他方、客も実は同じです。
なんかさみしくて人肌恋しいから風俗店に足しげく通います。


「こんな自分は嫌だ」例えば、モテない自分は嫌だ、と思い、しかし何をやってもモテず、なかば自暴自棄になり、高いお金を払って風俗店にやってきます。行為をしている最中は「この自分が嫌だ」という気持ち、すなわち、なんかさみしいという気持ちから逃れることができるので、彼は頻繁にお店に通います。


やがてキャッシングをしてまで店に通うようになり、その当然の帰結として自己破産します。


以上のことをより深い視点で言うなら、風俗嬢も風俗客もともに、「死んでもいいや」と心の奥底で思っているということが言えます。


親とうまくいかない(あるいは親がいない)こんな人生、別に生きなくったっていいや。すなわち死んでもいいや。


出世もできないし、モテることもない。彼女もできない。結婚もできない。こんな人生、別に生きなくたっていいや。すなわち死んでもいいや。

風俗嬢も風俗客も共に、「死んでもいいや」と心の奥底で思っているのです。

女性用風俗ユーザーを精神分析すると

女性も性欲を満たすことのできるいい時代になりました。

もともと女性は、たとえばマッチングアプリに登録すれば、お金をかけることなく「そういう行為」を希望する男からわんさかメッセージがきて、「相手」に不自由していないという見方が一般的でしょうけど、それでもやっぱりもっている性癖によっては自分の性癖を満たすのに苦労していたでしょうし、相手が思い通りのことをやってくれない人であっても苦労していたでしょう。

さて、女性用風俗を使っている人の特徴は、つねに「なんかさみしい」と思っている点にあります。


なんかさみしい、すなわち自己肯定感が低い。


これが女性用風俗ユーザーの特徴です。


女性用風俗ユーザーって、もともとは風俗嬢かキャバ嬢か、マッチングアプリを使っていた人なので、そのへんの女子の最大公約数をとると「なんかさみしい」「自己肯定感が低い」となります。これは30年前も今も変わっていません。


では、自己肯定感の低さはどうすればいいのか?


ひとつには、根無し草の根っこを見つけることです。「つくる」必要はありません。根っこはすでにあなたの心のなかにあります。それを見つけさえすればいいのです。


根っこがないから、あなたはどう生きればいいのかわからないと思っている。


自分に依って立てないから、依って立つ相手をさがしている。


さがしているうちは「なんかさみしい」ので、人肌恋しくて性行為をしたくなる。性行為をしているうちは「なんかさみしい」を忘れられますから。


根っことは自分のルーツです。

それはより具体的には、祖父母です。

わたしたちの人格は祖父母から「遺伝」すると、精神分析の世界では言われています。


祖父母の生き様を知るだけで、あなたの生き様に根っこが生えて、あなたは女性用風俗ユーザーを卒業することができるのです。


知るだけ? といぶかしく思いますか?


しかしわたしたちは、新しいことを知ることで自分の世界を刷新しつづけて今日にいたっています(よね?)。


たとえば、稼げる仕事があると知ったことによって、月収がおおきく上がって人生観まで変わったとか。


「知る」って、なんでもないことのようで、じつはわたしたちの人格陶冶の基礎をしっかりとつくってくれているのです。


ちなみに、女性用風俗をやっている男性にもまったくおなじことが言えます。

風俗通いをやめれない人を精神分析すると・・・

風俗店における性行為は「反抗のセックス」です。


つまり、「この自分=生き様が不器用で、なにをやってもうまくいかないこの自分」をつくった神様に反抗している。最高の反抗の手段がセックスしか思いつかない、というわけ。


その神様を、キルケゴールは永遠と呼びました。

ラカンは反復強迫と呼びました。

夏目漱石は「不可思議な恐ろしい力」と表しました。

芥川龍之介は「ただぼんやりとした不安」と――。

徳永英明さんは「壊れかけのラジオ」と――。

ここでは便宜的に永遠という言葉を使います。

もっと器用な生き様でありたいのに、転職したらいつも人間関係がうまくいかず、3ヶ月で転職してしまう。


セックスの相手に不自由しない人生でありたいのに相手がいつもいない。


風俗で金を使ってキャッシングを回すのがつらい。そんな人生を卒業したいし、そうかたく決意したのに、今日も風俗店に足が向いてしまう。オレはいったいどうなっているのか。

わたしたちの意思の力を超えた心の作用を永遠とか反復強迫とかといいます。


わたしたちはこの親から生まれようと思って産まれてきたのでもないし、この性格になろうと思ってその性格になったのでもない。


気がついたらこの親の子どもなっており、この性格を有する人になっていた。不器用で、要領が悪く、なにをやっても1番ほしいものが手に入らず、モテず、カネにも恵まれず・・・・


こんなんじゃいやだ。オレの人生をつくった永遠め! このクソが!


これが反抗のセックスの動機です。


ではどうすれば風俗通いを卒業できるのか?


1つは、もっともっと反抗のセックスをすることです。
あこがれの風俗嬢のように自由で楽しそうで、親もいないようなかっこうで昼間の仕事の時間を風俗店で過ごして、それでいて笑顔で・・・・という「あこがれのあの子」を目指して、今日もキャッシングして風俗店に通う。

やがて破産すればどうせ風俗店に行けなくなるのだから、そこまでトコトン反抗する。

2つめは、と言いたいところですが、物理的に反抗できなくなるまで、すなわちキャッシングできなくなるまで通い詰めないと、反抗が終わらない人が多いので、まあそれ一択でしょうというのが、現実的なラインでしょう。

で、その後、どうなるのか?

反抗に疲れ果てたころ、ぜひ心理哲学を一緒にやりましょう。

永遠は祖父母由来の「血」だということがわかります(ラカンの主張)。

永遠を言語化してあげることで、少しずつ自分のルーツがわかり、その結果、おのずと反抗のセックスに魅力を感じなくなります。


つまり、心のなかの非言語領域をゆっくりと、たしかに、見つめ、言語化することで、わたしたちの魂は救われるのです。


ちなみにキルケゴールという哲学者は、それでおおむね救われましたが、その後さらに高度な反抗をし、疲れ果てて42歳でこの世を去りました。合掌。

マッチングアプリは反抗のセックス

婚活のためにマッチングアプリを使うのが当たり前の時代になりました。しかし、婚活のためにというタテマエに隠れるかのように、なんかさみしいから後腐れなくセックスできる相手を探している人もいます。

たとえば、誰もがその名を知る大手IT企業に正社員としてはたらく優紀さん(29歳・もちろん仮名です)。
ルックスもスタイルもそう悪くなく、というか、街を歩くと3人に1人は振り返って二度見するレベル。学歴はMARCHクラスの大学卒。中学生くらいから25歳くらいまで彼氏を切らせたことがない。そんな女性です。


彼女がマッチングアプリを使いだしたのは26歳のとき。当時つきあっていた彼氏と別れたのがきっかけです。聡明な彼女は「30歳までに結婚する」というみずから掲げた目標を達成するために逆算して、婚活のためにマッチングアプリをはじめたといいます。社交的で友だちの多い彼女は、大学の同級生に恋人を紹介してもらうという方法も採れました。お金がないわけではないので10万円単位で結婚相談所に金を支払い登録するという方法も現実的な選択肢として、彼女の眼前に存在していました。しかし、それらの手段を彼女は選択しませんでした。というか、気づいたらマッチングアプリを使っていました。


彼女がなんかさみしいと感じはじめたのは15歳の頃だそうです。「いい高校に行き、いい大学に入り、いい会社に就職してほしい、そのためには地元で有名な学習塾に通って真剣に勉強してほしい」両親はひとり娘である彼女に、そんな期待をしていたといいます。


聡明な彼女は、両親の思いに応えるべく熱心に勉強しましたが、ときに仮病を使って塾を休み、ときに両親にウソをついて彼氏の家でセックスに耽りました。つまり、彼氏が彼女のさみしさを癒してくれていました。というか、彼氏とのセックスが、彼女の「なんかさみしい」を消してくれていました。


彼氏なきいま、彼女はマッチングアプリで出会った男とセックスすることで、なんかさみしいという気持ちを消しているそうです。多いときで週3回。しかもそれは同じ相手とは限らないのだそう。「セックスしている間はなんかさみしいと感じなくてすむので、つい……・それに相手を頻繁に変えたほうが後腐れがなくていいでしょ? 男の人ってエッチした女性のことをすぐ好きになるから」


中学3年からセックスに興じるようになった彼女のカラダは、セックスの快感を知ってしまい、いまや淫乱になったからマッチングアプリを使って不特定多数の男とセックスしているのでしょうか? ただのセックス大好き女に成り下がったのでしょうか? 男にちやほやされたがるだけのアホになったのでしょうか?


じつはそうとは言い切れません。彼女はみずからの運命に反抗するためにせっせとセックスをしているのです。


ここでいう運命とはたとえば、「この親」から生まれたという事実です。「勉強しろ」とうるさく言う親から生まれたのは、彼女が選択的にそうしたわけではありません。しいて言えば神様が、その親から彼女を産んだのです。


親にも同じことがいえます。親は「こういう性格の子を産もう」と思って産めるわけではありません。なぜか知らないけれど、「こういう性格の子」を産んでしまった。すべては神のみぞ知る、です。つまり神様が、この親とこの子をマッチングさせた。つまり運命。


同様に、彼女は選択的に今の性格になったわけではありません。「勉強しろ」と口うるさく言う親に対して「いやだ」と言える子だって世の中にはたくさんいるにもかかわらず、彼女はなぜかそれを言えない性格になった。これだって環境要因がありつつも、神様がそういう性格を彼女に与えた。すなわち生まれもったものがいくぶんかは作用しているといえるでしょう。


つまり彼女は、いやが応もなく神様がつくった「この自分」がいやで、この自分をつくった神に反抗するためにセックスしている。なぜなら、神に最大限反抗する手段として、セックスしか思いつかなかったから。彼女はアホではありません。しかしセックスという手段しか思いつかなかったのです。


これはおそらく多くの人がそうなのではないでしょうか。「この自分が嫌い」と思えば、酒を飲むかセックスするか、あるいは両方を一晩でやるか、といった反抗の手段しか思いつかないのでは?


この自分が嫌いという気持ちは、「本当はこうありたい」という気持ちがあってこそ生じる気持ちです。その「本当はこうありたい」という気持ちをもたらすのは永遠です。それに対し、「こうあることしかできない自分」がいます。「こうありたい自分」と「こうでしかない自分」が葛藤した結果、よほど自責的な性格の持ち主でない限り、神に近い存在である永遠に反抗するという行為に打って出ます。すなわち、酒を飲むかセックスするか、あるいは両方を一晩でやるか。


この彼女の場合、こうありたい自分は、親に「勉強しろ」と言われ続け、それに従ってきた自分が隠しています。「いい子」を演じているうちに、すなわち他者に気に入られる文脈で物事を考えることが常態化した結果、「自分が本当に考えていること」がわからなくなった。


ゆえに彼女は今、「自分にとっての本当」がわからない。それは謎の存在者「X」として彼女の心の深い場所に眠っています。つまり彼女の崇高な永遠は眠っています。目覚めない永遠は霞の向こうの存在ですから、彼女は今その永遠に近づくことができない。そのできなさが反抗というかたちをとるのです。


ちなみに風俗嬢もおなじです。
お金のために苦痛にあえぎながら身体を売る貧困風俗嬢が、しばしばメディアで取り上げられます。しかし他方で、「お金をもらってセックスできるならまあいいか。イヤな客もいるけどそれは我慢すればよく、しかし中にはタイプの客もいるから」という理由で、なかば楽しみながら風俗嬢をやっている女子もいます。


そういう女子はたいてい、生い立ちの中に存在するいくつかの出来事を否定的に語ります。いわく、親が厳しかった、やりたいことをやらせてもらえなかった、両親の仲が悪かった、など。


つまり「こうありたい自分」に向かって努力しつつも、「こうありたい」という崇高な永遠に届かない。その結果、むしゃくしゃして自暴自棄になり、セックスに走る。


たとえば、六本木の高級デリヘル嬢のなかには、容姿端麗で高学歴の人がいます。そういう人のなかには必ず、自分の過去に言葉にならない暗闇を抱えている人がいます。そういう人はデリヘルバイトで500万円貯金しようと1000万円貯金しようと、その仕事を辞めません。夜ごと客の待つ高級ホテルの高層階に出向き、そこに客が用意したシャンパンを飲み、夜景を灯に暗闇でセックスします。そうやって40歳を超えた超美人さんも世の中にはいるのです。


そこまで徹底してみずからの永遠に反抗する生き様はかっこいいとわたしは思いますが、外見からはうかがい知ることのできない生きづらさを抱える彼女は、やはりどこかしらさみしそうに見えます。理由のないさみしさの理由を、ひとりもがきながら必死に探しているように見えます。


永遠はそれと向き合ったとき、わたしたちを絶望に陥れ、その結果、夜の闇にまぎれてセックスする存在へと突き落とす、そういった非情な側面も持っているのです。


このことは、わたしたちは永遠にセックスを「させられている」と言い換えることができます。つまり人生の主体はなんかさみしいという茫漠とした気持ちであり、私たちの意思――真面目に生きるべきだ、闇にまぎれてセックスするような後ろめたい生き様をすべきでないという気持ちは、永遠の後を力なく、うなだれて歩くしかないということです。


※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

「なれなさ」に反抗する痴漢たち

前回は女子の性欲と永遠についてお話しました。今回は男子の性欲と永遠についてお話したいと思います。が、そのなかでもとりわけ、痴漢についてお話したいと思います。なぜなら、男の性欲と永遠が端的に表れているのが痴漢だからです。

ところで「痴漢は性欲に負けたヤツがやることでしょ?」というのが、おおかたの世間の見方ではないかと思います。たしかにそうでしょうが、しかし精神分析的に見るとそうとも言い切れません。


痴漢は美しい女子になれない「なれなさ」に反抗するために、せっせと女子のケツを揉み続けています。


痴漢は「この子、オレのタイプ」という女子に狙いを定めます。当たり前ですよね。興味のない女子のケツなんか揉みたくないのですから。女子が興味のない男に抱かれたくないのと同じです。


彼はしかし、そのケツを揉んだら気持ちがおさまるわけではありません。これでは同じ女子をターゲットに繰り返し痴漢する男の説明がつきませんよね。


彼は彼女の永遠を見たい、触りたい、揉みたいと思っているのです。なぜなら、彼にとって彼女は「完璧な」生き物だから。


――彼女はオレのように人生に絶望しておらず、社会に馴染んでおり、セックスの相手に不自由しておらず、就活すれば即座にいい企業に就職が決まる、オレと正反対の生き物だ。そういう生き物がもつ秘密をこの目で見たい。触りたい。揉みたい。


彼はこう思っているのです。


もちろん、彼女の実態は、人生に絶望しており、セックスの相手に不自由しており、家に帰ると両親の仲が悪く、それゆえ家にいたくなく、就活しても高卒でも入れるような会社にしか採用されない、というものかもしれません。しかし彼は、そういう可能性をまったく顧慮しません。「オレのタイプの女子=オレと正反対のすばらしい存在=女神=オレの永遠を具現化している存在」と思い込んでいます。その思い込みが彼に痴漢させるのです。


盗撮犯も、女子大生を狙った無差別殺傷犯もおなじです。オレは最低の生き物だと彼はつねに思っています。同時に彼の心の中には「こうありたい自分」が生きています。それがかわいくて聡明そうで育ちがよさそうな女子なのです。オレのようにセックスの相手に不自由しておらず、なんなら高校生の頃から性を謳歌しており、勉強もできて、セックスしながら青山学院大学に入り、そこでも同様に……という「こうなりたい自分」になれない「なれなさ」が、彼に痴漢させる、盗撮させる、無差別殺傷をさせる――。


このことをより大きな視点から言うなら、彼は「女になれない自分」に絶望しているといえます。すなわち男「である」自分に絶望している。


女とは、上に何度も申し上げた、オレのように人生に絶望しておらず、社会に馴染んでおり、セックスの相手に不自由しておらず、就活すれば……という女です。彼女の実態を無視した「理想の女」。それに、彼はなりたいと思っている。しかしなれない。だから自分自身に怒る。すなわちみずからの永遠に反抗する。それがすなわち、痴漢、窃視、無差別殺傷なのです。


彼はゲイではありません。ゲイとかそういうLGBT問題とはまったく独立に、彼は自分がみずからの心の中で育て上げた女神に反抗するのです。すなわち永遠に反抗するのです。「オレが理想とする女」にオレはなれない。「オレが理想とする女」としてオレはこの世に生まれてこなかった。その事実が彼を絶望させ、怒らせ、その怒りが内向きに膨満し、閾値を超えたとき、痴漢、窃視、無差別殺傷が起こるのです。


だから、痴漢矯正プログラムをいくら彼に与えても、彼の痴漢癖は治りません。みずからの心に宿る永遠とどう折り合いをつけるのかがわかるまで、彼の痴漢は続きます。つまり「べき論」や「欲求」についていくら説いても、そんなものは暖簾に腕押しなのです。


ちなみに薬物治療もおなじです。薬物やアルコール依存症の治療プログラムは「べき論」と「欲求」で構成されていますが、問題の本質は永遠であるゆえ、容易に再発するのです。むろん、化学物質に由来する中毒という側面がありつつも、ということです。


ともあれ、痴漢は「なれなさ」に絶望しています。永遠、すなわち夏目漱石風に言うなら「不可思議な恐ろしい力」が、彼に痴漢させるのです。


※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

お天気お姉さんの優雅な下半身ライフとその後の人生

前項まで、永遠のもつロマンティックな側面と邪悪な側面についてお話しました。この項から3回続けて、それらを自分のこととして理解できない人とできる人がいるというお話をしたいと思います。

あ、先にお断りしておきますが、永遠が理解できないからいい、とか、悪いということではありません。善悪や好悪の話ではありません。よろしいですね?

 

さて、みずからの心に宿る永遠をまったく理解していない人がいます。そういう人は「欲求」と「べき論」だけで生きています。すなわち「すべてのことは言語化できる」と思って生きています。なので、非常に生きていきやすいし、傍から見てもこの世に馴染んでうまく生きているように見えます。
 

中学時代から男子にちやほやされてきて、セックスを楽しみつつも罪悪感などまるで抱かず、親や先生の前で「いい子」を演じ、名の通った大学に進学し、大学在学中に芸能事務所に所属。そこで権力を持っているおっさんに色目を使い、そのことにまったく罪悪感を抱かないどころかおっさんをどんどん利用してお天気おねえさんデビュー。そのままフルーアナウンサーに。アナウンサーとして芸人さんたちとハダカの交流を含めて交流し、30歳直前で億を稼ぐ芸人さんと結婚。お天気おねえさんの中にもみずからの心に宿る永遠をよく理解している人もいますが、そうではない人もおり、そういう人は本当に要領よく人生を開拓していきます。


 

そういう人はラフマニノフが奏でる哀しみのグラデーションを理解できません。「死にたいです」という人を自分から遠ざけます。家賃3万円の風呂なしアパートになど住んだことがありません。就活に失敗するのは失敗する人が悪いと思っています。つきあう男は金持ちで当たり前で、デートはふたりで5万円する西麻布の寿司屋で当たり前と思っています。

いいですか? 善悪や好悪の話ではないので、読みながら怒らないでください。そういう人が現にいる、あなたが好むと好まざるとにかかわらず存在するというお話をしています。


 

35歳を過ぎたころ彼女は、某テレビ局の名プロデューサーとの不倫をスッパ抜かれ、すべての番組を降板。離婚して世間に出ることなく暮らすも、永遠にまったく気づいていない明るく元気でポジティブな性格ゆえ、セックスの相手に不自由せず、新しい彼氏もでき、その彼氏が金持ちで、どうにか納得のいく生活を送ります。

 

しかし、ふたたびセックスが原因で45歳にしてすべてを失います。


そのとき、彼女は思います。私はこれまでセックスをおおいに楽しんできたけど、それがよくなかったのかな。欲求とべき論の葛藤しか知らない彼女はそう考え、長かった髪を短く切り、大学院に通って修士号を手にし、地方の小さな大学の講師におさまります。


 

永遠をまったく知らない人とは、たとえばこういう人生を送る人です。

欲求とべき論だけで暮らすのって、永遠を理解してしまった人から見ると、まことにシンプルでいいなあと思うでしょう。


しかしそういう人も、やがて、みずからの心に宿る「不可思議な恐ろしい力」を知るのです。知るのが遅いか早いかのちがいであり、やがて知ります。そのとき不可思議な恐ろしい力の扱い方を知らないとどうなるのか? 最悪、悪い宗教にハマるのです。

 
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

楽しそうにセックスしない人々 ~反抗の絶望とは?~

永遠を理解できる人と理解できない人がいるというお話の続きです。前項では、永遠を理解できる人のうち、なりたい自分になろうとする人についてお話しました。この項ではもう1つの永遠を理解できるタイプ、すなわち永遠に向かって猪突猛進的に突っ走るタイプの人についてお話します。

 
さて、なりたい自分になろうとする人のことをキルケゴールは弱さの絶望といっています。永遠が自分に求めてくるものをうすうす理解していながら、そこに向かわず、つい自分が夢想するなりたい自分を目指してしまうというわけです。

 

例えば、永遠というとりとめもないものに誠実に向き合って自己理解を深めるのではなく、自分と向き合うのを避けるかのように現実的なさまざまな予定を入れる人。デートの予定であったり、明るく元気に生きる方法を説く自己啓発セミナーへの参加であったり、そういったもので予定を埋めることで自己と対峙するのを避けるタイプの人。これが弱さの絶望です。
 

一方、永遠が求めてくるものに向かってとことん突き進むも、永遠に肉薄できない、そのできなさに絶望する人のことを、キルケゴールは反抗、あるいは男性らしさの絶望と呼んでいます。

 

前項でピアニストの例を挙げましたので、ここでも同じ例を挙げたいと思います。


芸術に肉薄するかのような優れた演奏をするピアニストになりたいと思い努力するも、実際には、町の幼児ピアノ教室の先生にしかなれなかった女性の例です。


この女性が反抗、すなわち男性らしさの絶望を持つとどうなるのか?

 
例えば、ありとあらゆるコンクールを受けまくります。そして当然のように落とされ続けます。理由簡単で、能力や境遇、持って生まれた能力や置かれている境遇、経済的な限界などがあるからです。良くてせいぜい一次選考を通過するのみ。
 

それでも彼女は芸術に肉薄するような演奏ができるピアニストになるという目標を諦めません。借金できるところすべてから借金して、そのお金で生活しつつ、1日15時間ピアノの練習をします。

 

やがて彼女は、自分ほど努力している人間はいないとの思いを強く抱くようになります。そして彼女は混乱します。睡眠時間や食事時間を極限まで削っても、1日15時間しか練習出来ない。にもかかわらずコンクールに優勝しない。どうして? 永遠がわたしに求めてくるとおりにわたしは限界まで努力しているのに、なぜ?

 

やがて彼女は怒りっぽくなります。その怒りが強くなり、自暴自棄になります。自暴自棄になった彼女はセックスに手を出します。マッチングアプリで知らない男と連絡を取り、セックスします。まるでセックス中毒の患者のように。自暴自棄になっている彼女にとって、セックスの快楽だけが、彼女を心休まる場所に連れて行ってくれるのです。

 

しかし彼女はけっして楽しそうにセックスしません。目を閉じ、ときに眉間にしわを寄せてセックスします。行為のはじまりも終わりも「やりたいんならどうぞ」という雰囲気を全身から発します。

 

タイプの絶望に侵されている人は、自分の持って生まれた能力の限界や、置かれている環境の限界、経済的限界をまずは認めるというところから始めるしかありません。私たちは誰しも何らかの限界(あるいは欠損)を持って生まれてくるわけですから、その限界(欠損)を前提として計算に入れたうえで、どのように生きていくべきかを決断するしかないのです。


この決断がないところに反抗が生じます。

 

そしてそれは多くの場合、セックスという形をとります。これは先にも述べましたが、永遠に最高最大限に反抗しようと思えば、おそらく、多くの人はセックスという手段しか考えつかないのだろうと思います。例えばマッチングアプリが危険だと言われているのは、この手の絶望を抱いている人、すなわち外見からは見分けがつかないものの、じつは自暴自棄になっている男女がマッチングアプリに多いからです。

 

そういう人はセックスを心の底から楽しんでいません。自分はダメになってもいいやと思いつつセックスをしているからです。同時に、自暴自棄な自分を憐れむ気持ちも持っています。つまりあらゆるマイナスな気持ちが嵐のように心に吹き荒れています。そういう人が心から楽しく健全な性行為ができるでしょうか?

 

いかがでしょうか。

永遠を理解できる人とできない人がいます。理解できる人は弱さの絶望と反抗に大別できます。前者はひきこもりに、後者は自暴自棄な性行為に象徴されます。
 

ちなみに、この項で何度かその名前を挙げたキルケゴールは、かなり強い性欲に悩まされ、かつ自暴自棄な性生活を送っていたようです。そういう人がやってきた哲学って、ちょっと魅力的だと思いませんか?

 

※参考

キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

セックス依存症の本当の原因と解決法とは?

セックス依存症について、科学の心理学は以下のように述べています。

――単なる性欲が強い・性行為が好きとは違います。行動によって得られる性的な興奮や刺激に溺れることが習慣化し、頭の中が性のことでいっぱいになり、自分の意思で症状をコントロールできなくなっていきます。――


その原因は?


――性依存症の本質は、性欲の問題ではありません。実際はもっと複雑で、さまざまな複合的要因が絡み合った問題といわれています。親子関係の問題や過去のトラウマ、ストレスや不安や焦燥感、現在の置かれている環境、他の依存症なども関連しているようです。――


――性的対象に依存している間は、脳内から快楽物質が放出されます。すると、不安や孤独感などから一時的に逃れることができます。こういう経験が脳に刻み込まれ、アルコールや薬物といった物質依存と似たメカニズムが働いているのではないかといわれています。――(※参考:大船心療内科


さて、心理哲学はセックス依存症の原因を反抗であるといいます。以前述べた「反抗のセックス」です。すなわち、「この自分」が嫌で、「この自分」をつくった神に反抗するためのセックス。


神というのは、人間の力を超えた何者かという意味であり、特定の宗教の神ではありません。


私たちは「この親」から生まれたいという意思なしに、何者かによって「この親」から生まれることを余儀なくされた。この暗く悩みがちな性格ではなく友だちのAさんのように天真爛漫な性格をもって生まれてもよかったのに、なぜか「この性格」になった。何者かがそうした。それを神と呼んでいます。


科学の心理学がいう「親子関係の問題や過去のトラウマ、ストレスや不安や焦燥感、現在の置かれている環境、他の依存症」もすべて神のしわざです。


親子関係の選べなさは先に指摘したとおりです。

トラウマは親子関係に起因するなんらか不幸なできごとのことであり、これも親子関係という理不尽な非選択的要素が原因と言えるでしょう。ストレスも不安も焦燥感も、おなじ境遇に置かれてもそれらを感じない人がいるのにわたしはなぜ感じるのだろう? これもそのようにあなたの性格をつくった神のしわざです。むろん後天的な要因がありつつも神の要素をまったく抜きには語れないでしょ、ということです。現在置かれている環境だって、100%選択的に選んだというより、ある種「流れ流され」では?


つまり、みずからの内なる神、すなわち永遠に反抗するためにセックスという手段を使う。

性行為中は(科学の心理学の言葉を借りるなら)ドーパミンが放出され気持ちよく、「なんかさみしい」という鬱陶しい気持ちから解放される。だから繰り返しセックスをする。行為が終わると罪悪感がどっと押し寄せる。


セックス依存症を卒業しようと思えば、したがって、永遠を解きほぐしてあげる必要があります。具体的には、自分のペースでいいので、永遠の中に潜むものを少しずつ言語化してあげる。同時に、祖父母の生き様を知る。つまり自分のルーツを知る。そうすることで、少しずつ「この自分」を好きになることができます。


やがてセックスに依存しないでも生きていける自分にあなたは驚くでしょう。「自分のことが好き」とか「嫌い」という気持ち自体が、あなたの心の中で消滅したのです。


※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

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