ユーミンと永遠
ユーミンは「とりとめのないもの」や「はかないもの」をとてもうまく歌詞にします。聞くところによると、ユーミンは「せつなさ」を、音楽をとおして追究(追及)しているのだとか。
そのせつなさとは「永遠」のことです。
たとえば「紙ヒコーキ」というユーミン(荒井由実)の作品は「とりとめのない気ままなものに どうしてこんなにひかれるのだろう」と歌います。とりとめのない気ままなものが永遠そのものです。
それになぜかひかれる。
つまり意思の力で「そんなものにひかれてはならない。生活するためにしっかり働かなくてはならない」と思ったところでなぜか永遠にひかれるのがわたしたちなのです。
ヒコーキつながりで「ひこうき雲」(荒井由実)。
歌詞のなかの主人公である「あの子」は「誰にも気づかれないままのぼって」ゆきます。永遠とは誰にも気づかれない心のいち領域なのです。だって、「あの子がなにを考えていたのか誰もわからない」のだから。
やがて「あの子」は「空へ舞い上がり」ます。死をも恐れない気持ち。それが永遠です。その「あの子」は「空にあこがれて」いました。つまり崇高なもの、神がかっているもの、神ではないが神につながっているなにか、にあこがれました。ようするに永遠にあこがれていた。
だから(しかし)「あの子」は「しあわせ」だとユーミンは歌詞に書きました。永遠にあこがれ、それに生涯を賭すことはしあわせだ、すなわち永遠を地でゆく生き様はしあわせだということでしょう。
ところで、ユーミンは1990年に「天国のドア」というアルバムをリリースしました。当時は1枚のアルバム、すなわち10曲ほどで1つのコンセプト(概念)を表現することのできた時代(ようするに今のように1曲ずつダウンロードでしか売れないのではなく、アルバムが売れていた時代)でした。
そのアルバムのキャッチコピー(当時はバブルでお金ならいくらでもあったのでアルバムにご丁寧にキャッチコピーが添えられていた!)が
「永遠をお探しですか」
でした。ユーミンがキルケゴールやラカンを読んだかどうかは定かではありません。しかしそのキャリアの最初期からとりとめのないものにこそ、うたの歌詞にすべき価値あるものが含まれていると(おそらくは)考えていた(であろう)当時のユーミンにとって、そのキャッチコピーは「キャリアの集大成」というべきものだったのではないでしょうか。
時はバブル。お金があればなんでも買えると多くの人が思っていた時代。その時代にあって、ユーミンはお金をいくら積んでも買えないもの、すなわちみずからの心に宿る永遠に限りなく近づきたいと思っていたのかもしれません。
実際にユーミンのプロデューサーである旦那さんの松任谷正隆さんは「天国のドア」をプロデュースし終えて次のようにお話しています。
――こんなことを言うと、病院に連れていかれるかもしれないけれど、僕は確かに神をみたんだ――(月刊カドカワ VOL.9 NO.1)
とりとめのないものにひかれる気持ちや、死にあこがれる気持ちは、おそらく誰でも抱いたことのある気持ちではないでしょうか?
「いや、そんなものに惹かれないでもっと仕事を頑張るべっきっしょ」「いや、自殺はよくないっしょ」現代はそういう意見が幅を利かせていますね。合理的かつ効率的に金儲けする人が「えらい」んでしたっけ? 現代においては。
しかし、世間がどうあれ、謎の存在者「X」がわたしたちをあらぬ運命に引きずり込むのは、キルケゴールやラカンの慧眼のとおり、今もむかしもまったく同じなのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020
性欲と永遠について
学校では「性教育」をやっているようですが、わたしが知る限り、「性欲」についてみんなで考えるという取り組みをしている学校はありません。
がしかし、もっともうっとうしい日常感覚である「なんかさみしい」は、じつは性欲と分かちがたく結ばれています。
あのavex(エイベックス)が隆興する以前、渡辺美里さんが「言いだせないまま」(作詞:神沢礼江 作曲:木根尚登)という歌を歌っています。
歌詞の主人公は中学3年生くらいでしょうか。ある女子に片思いしている男子の切ない恋心を描いている作品です。
彼女のことが好きすぎて、というかあこがれすぎていて、彼女と目が合っても「本当に言いたいこと」を言えない。そんな彼は「彼女の心の中を覗いてみたい」「彼女を瓶に閉じ込めてずっと眺めていたい」と思います。
つまり、性欲を含む永遠におかされている彼は、彼女の魂の秘密を暴力的な方法を使ってまで知りたいと思うのです。ようするに、彼は性の問題を含む永遠にがんじがらめにされて「どこにも行けない」。
どこにも行けない「行けなさ」が、彼女がなぜかふと遠くへ消えてゆくのではないかという不安を彼の胸に運んできます。すべてが消えてしまいそうな不安を前に彼はただ立ち尽くすしかありません。
つまり、この作品は、永遠を「性欲を含むあこがれ」という「どこにも行けない気持ち」を生みだすものとして描いていると解釈することができます。
この気持ちはなにも男子に限ったものではありません。
女子のなかには「推し」に激しくあこがれている人がいますが、そういう人もまったく同じです。あこがれがもたらす「出口のなさ」に閉じ込められています。ほら、前の項でお話した夏目漱石、彼が「牢屋」と表していたのはこの息苦しい気持ちのことなんですよ!
息苦しい牢屋的気持ちを脱するために、より広い視点で申し上げるなら、異性を過度のあこがれでもって見上げるのは運命ゆえです。その人にそういう「血」が流れているからです。
精神分析によると、わたしたちは祖父母の考え方のクセを引き継ぐのだそうです。その言にしたがうなら、異性に激しくあこがれたことのある祖父母をあなたはもっているはずです。
と、広い視野に立って心が落ち着いたところで(落ち着きましたか?)性欲について少し解説を加えましょう。
性欲というのはなにもセックスをしたい、おっぱいを揉みたい、という気持ちのことだけではありません。相手の「魂が開かれていいる地点」を見たいという気持ちも、じつは性欲なのです。
大昔の話をします。
プラトンの『饗宴』によると、大昔、わたしたちは「オトコオンナ」という生き物だったそうです。つまりひとりの男とひとりの女が背中合わせにくっついてひとりだったそうです。やがてお供え物の数に不満を感じた神様が男女を分けて、今のように男と女になったとのこと(チャーミングで強欲な神様ですよね)。
男は、「自分の半身」である女を真剣に探します。女も同様に「自分の半身」を熱心に探します。幸運にも自分の半身に出会えたら、ふたりは「驚くほどの愛情と親密さとエロスを感じ取る」のだそうです。エロスとはエロじゃなくて完全なものを求める気持ちのことです。
しかし「彼らは、自分たちが互いに何を求め合っているのかを言うことはできないだろう。彼らは単にセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、なにかそれとは別のものなのだ。彼らの魂は、それが何なのかを言葉にすることができない。彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできないのだ」(プラトン『饗宴』中澤務訳・光文社)
ほら、「それが何なのかを言葉にすることができない」「彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできない」これはまさに永遠でしょ?
永遠というやっかいなものは、そこに「セックスをしたいだけではない性欲」を含むからやっかいなのです。
ちなみに、男子は初恋の人のことをずっと忘れられないと、世間では言われていますよね?
それはなにも、初恋のあの子のおっぱいのふくらみや尻の曲線美を忘れられないだけではありません。初恋の子とセックスしたかったという後悔だけでもありません。
あの子の永遠を知りたいのです。彼はあの頃かんじた永遠をまだ言語化できていません。それゆえ完結していない物語を、どうにか終わらせたいともがいているのです。必死なのです。
そういう心持ちをわかりやすい言葉でいうと「忘れられない」となるのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020
新海誠監督「秒速5センチメートル」と永遠のエグさ
前項まで、永遠のいいところとか、ちょっとせつないところについてお話してきました。しかしじつは、永遠はエグイ側面ももっています。そこで今回は、エグくなりすぎないていどに、永遠のもつエグさについてお話したいと思います。
さて、新海誠監督の作品に「秒速5センチメートル」があります。タカキという主人公の小学生時代から大人になるまでの生き様を回想的に描いている作品です。
中学3年生のタカキは、小学生のころ仲の良かった、しかし親の転勤で別々の中学に進学したアカリに、久しぶりに会いにいきます。そしてキスをします。
キスシーンの直後、ナレーションが入ります。要約すれば以下のようなナレーションです。
「その(キスした)瞬間、ぼくはアカリという彼女の魂のあり方(アカリの世界の開闢の秘密)がわかった気がした。しかし直後、哀しい気持ちになった。魂や心と呼ばれているものをどう扱っていいのかわからなかったからだ」
つまりタカキは、アカリのもつ永遠と、自分のもつ永遠を、中学3年にして知った。そしてそれをどう扱うといいのかわからないということがわかり、そのわからなさはきっと長期にわたって続くと予感した。
高校も中学同様、タカキとアカリは別々の学校に進学します。タカキは親の転勤で種子島(鹿児島県)の高校に進学します。新海誠監督がタカキの永遠を、宇宙やロケットの発射に仮託させて語りたかったので種子島を選んだのではないかと思います。種子島には宇宙センターがありますから。
さて、種子島の高校では、タカキに片思いする女子が登場します。タカキは永遠に心奪われているので、宇宙に関する雑誌を読みあさったり、しかるべき大学に進学するための勉強をしたりしています。同時に、夢のなかに出てきた「あの子」の、夢の中における言動をスマホに書きつけます。ときどき、タカキに片思いしているその女子と一緒に下校するときですら、彼はスマホにそれを熱心に打ち込んでいます。そのことに気づいた彼女は哀しい顔をします。
むろん、「あの子」はアカリの象徴です。タカキは夢のなかで、高校生になったアカリを夢想し、アカリの尻を揉んだりおっぱいを触ったり、あるいはセックスしたのかもしれない。したかったのかもしれない。自分の無意識が出てくるのが夢ですから。
しかし、おそらくタカキにとってそういう「表層的な」性欲はどうでもよく、アカリの魂のありかたやら、永遠という謎の存在「X」の秘密を解き明かしたいと必死だったのではないでしょうか。
やがてタカキに片思いしている女子は叶わぬ恋と悟り、静かにふたりの関係は終わります。
自分に親切にしてくれる「目の前にいる人」に目がいかない。気持ちが向かない。これが永遠のもつ残酷な一面です。タカキのなかでは永遠ほど価値あるものはなく、目の前の女子など「あとまわし」なのです。彼女が果たせぬ思いに涙しようが何をしようが、悪気なく「見えていない」のです。
つねになんかさみしいと思っている人は、目の前の人やコトに集中できない。つねに気持ちが過去に向いてしまう。過去回想こそが生きるためのガソリンであり、「今ここ」に気持ちをつなぎとめておけない。これは一般論かもしれませんが、しかし新海監督はそのことを精緻に、ときに芸術的に描きます。
時はすぎ、大人になったタカキは、就職した会社をすぐに辞めます。これも「今ここ」を生きることのできない人の特徴です。相変わらず永遠に心を支配されており、コンビニで買った安酒の空き缶が部屋に転がり、タバコを吸い、影のある彼女のことをうまく愛せない。雇用保険で食いつなぎ、昼間でもカーテンを半分ほど閉めた部屋でほとんどひきこもり状態。そんな不幸三重奏が描かれます。
そう、永遠はそれを知ってしまった者の心を「今ここ」に向かせないばかりか、世間にまったく馴染まない性格に変えてしまうのです。死んでもいいやと思わせてしまうのです。自暴自棄にさせるのです。
映画の終盤、アカリはタカキ以外の誰かと結婚することになります。結婚が決まって実家を去る日のアカリの様子が描かれます。田舎の実家から電車に乗って嫁ぎ先に向かうアカリが車内で読んでいるのは、夏目漱石の『こころ』です。現在のタカキをアカリは知らない設定ですが、タカキと心でつながっているアカリには「タカキを<殺してしまった>のはわたしだ」という自覚があるのでしょうか。それとも単なる「よくできた心理学的小説」として読んでいるのでしょうか。さだかではありませんが、『こころ』が「なんかさみしいとはなにか?」すなわち永遠をテーマとした小説であることはたしかでしょう。
アカリも、タカキから遠く離れた場所で、おそらくはタカキ同様、永遠について考えていたのでしょう。ふたりとも同じテーマ、すなわち永遠について誠実に考えてきたのに、ふたりはパラレルだったし、今もパラレルだし、これから先も交わることはないでしょう。永遠の残酷さはここにも表れています。他人のさみしさは救えない。
他方、その頃のタカキはまだなお、アカリの永遠を反復的に回想している。そしておそらくは、「あの頃の」アカリとセックスしたいと渇望している。しかし「あの頃のアカリ」は幻だから、タカキは幻に恋をしている。つまりどこにも行けない。牢屋的人生。不可解な恐ろしいものに支配されきっているすさんだ生活。酒、妄想、オナニー。絶望。自暴自棄。やがて、今タカキのことを愛してくれている彼女とも別れてしまう。そしてエンディング……。
いかがでしょうか。
ユーミンは、たとえば「ひこうき雲」で永遠をおしゃれに描きましたが、新海誠監督はおしゃれさをもちつつも、永遠のもつ凶暴さや邪悪さを誠実に描きます。生きづらさ、人間関係のうまくいかなさ、あの頃の彼女しか愛せない哀しさ、行き止まり感、出口のなさ感、目の前を人を愛せないゆえどんどん他者に哀しみを与えてゆく負の循環のどうしようもできない「どうしようもなさ」、どうしようもなく膨満し続ける性欲……。
永遠とはそういう側面を持っているのです。
あなたの心にもじつは、それがちゃんと宿っています。だからあなたは、わけもなく「なんかさみしい」と感じるのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020
なりたい自分を目指すから病むのです
なりたい自分になろう、ということを、自己啓発はもとより、心理学系の国家資格保有者も言いますが、じつは、なりたい自分を目指すから人は病むのです。
なりたい自分ではなく、もって生まれたものが何かを知り、そこに向けて歩くなかで、わたしたちの人格はたしかに形成されます。
キルケゴールは「なりたい自分」を目指し、それになれない「なれなさ」に打ちひしがれ、自分を責めることを「弱さの絶望」と名付けました。
他方、「オレはこんなに努力しているのに、なぜなりたい自分になれないのだ!」と、怒り、自暴自棄になる人の絶望を「反抗」「男性的な絶望」と名付けました。
いずれも「なりたい自分」を目指すこと、すなわち、自分が本来持って生まれたものを知ろうとせず、「雰囲気」で「こうありたい」と思い、それを「勝手に」めざすところから生まれる絶望です。
雰囲気というのは、たとえば、心理学が「明るく元気に生きよう」と言うと「たしかに」と思って、自分を明るく元気に「矯正」する、とか。インスタのちょいエロのインフルエンサーがかっこよく見えてそのマネをするとか、そういうことです。
自分はどのような能力をもって生まれてきたのか、は、さまざまな社会経験を経ないと見えづらいのが実情です。
しかし、キルケゴールの心理学をもよく研究したラカンは、わたしたちは祖父母の血を引いており、それゆえ「祖父母と同じ不幸を経験する」と言っています。
つまり「もって生まれたもの」は祖父母の生き様を「知る」ことでおのずと見えてきます。
あるいは、自分が失敗した原因を振り返ると、たいていの人は同じことが原因で失敗しているとわかります。
たとえば、しあわせになれる! と確信した瞬間、気持ちが冷めて、あえて不幸になる方向に歩む、とか。
「なりたい自分」をめざす前に、自分のルーツを知る。
これが自己肯定感を高める要諦だといえます。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』
ラカン・J『エクリ』
ひとみしょう『希望を生みだす方法』