ひとみしょう、人生を語る

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心療内科めっちゃ混んでて・・・・私たちはどう生きるか

私の主宰するカウンセリングの会社に1年ほどお通いになっている方から昨日、「心療内科めっちゃ混んでて」と聞かされました。私は医者ではないので、「あー、そうですか」としか答えませんでした。しかし、その言葉の背景には、哲学的に見て、いくつかの視点が潜んでいると思いました。

病名の問題
昨今は心療内科のお医者さんがたくさん本を書いていますので、少し本を読んだだけで、いくつか分かることがあります。
例えば、病名に関する考察です。病名というものは、それを与えられて安心する人がいる一方で、病名を与えられることによって、その病名の中でしか思考できなくなる人がいるという問題です。
あるいは、お医者によって見立てが違うので、病名を与えられたり、与えられなかったりすることがあるとも言われています。それは支給される金額に直結する問題であるようで、ある種の人にとっては、病名を与えられなかったという結果が、文字通り死活問題になっているそうです。

心の問題の哲学
さて、心の問題に関する哲学は、例えばキルケゴールが拓きました。彼は今で言うところの毒親問題に苦しみました。彼のその経験は、彼の主著である『死に至る病』に結実しているように思います。そのキルケゴール哲学はその後、フロイトやラカンへと引き継がれ、1つの系譜をかたちづくっているようにも思います。あまりこのようなことを言う専門家がいないのですが(※)、私が勉強する限り、そのように見ることに妥当性があるように思います。(※)哲学史に燦然と輝くビッグネームの中には、「私の思想のベースには誰それの哲学があります」と明言しない人がいるので、日本においてそのへんの研究が進まないのだろうと思います。書いてないからね。

私たちはどのように生きればいいのでしょうか
さて、心療内科がめっちゃ混んでる時代を、私たちはどのように生きればいいのでしょうか。
心療内科がめっちゃ混んでる時代とは、世間の考え方や科学に自分を当てはめることで、自分というものを捉えている人が多い時代と言うことができます。
私たちは知らず知らずのうちに、首までどっぷり科学に浸っており、かつそのことにほとんど自覚がないので、世間の考え方や科学に自分を当てはめて当然と言えば当然かもしれません。

しかし、人生というのはいつの時代も、自分が持って生まれた良い(善い)ところを生きることによって拓かれます。このことは説明するまでもないでしょう。
しかし、特に日本は、同調圧力が非常に強いので、世間の考え方に自分を当てはめないといけないという強迫観念のようなものが生まれます。その恐れが、生きづらさを生みます。

しかし、キルケゴールの言を待つまでもなく、私たちは自分を生きることによって、どうにか精神を平安に保ちつつ生きてゆくことができます。
さらに言うなら、これもキルケゴールの言ですが、自分のすべてを注げるものを生きることによって、人生をどうにかすることができます。
かの有名な「サウンド・オブ・ミュージック」の中の言葉を以下に紹介して、本稿を終わりたいと思います。


あなたの愛を注げる夢
あなたの人生を捧げられる夢

すべての山に登る
すべての谷川を渡って 
虹の先に進むの
自分の夢を見つけるまで

ポイントは2つあります。自分「の」夢、が1点。2点目は、すべての山に登る、すべての川を渡る、です。1つ2つの山や谷川ではなく、「すべて」なのです。(ひとみしょう/作家・哲学者)

※参考:
キルケゴール『死に至る病』(筑摩書房)
斎藤環『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)
哲学は生活に還元できる
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