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こころの仕組みとは

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じつは心はこんな構造をしています

心は目に見えないよくわからないものではありません。じつは構造をもっています。構造というのは「どのようになっているか」ということです。

たとえば、ものすごくインスタ映えのする芸術的なショートケーキを見たとき、「どんなふうに作られたのかわからない」と思うことがあります。しかし、そのケーキをよく観察すると一番下にスポンジがあり、その上にカスタードクリームがあり、その上にミルクチョコレートのムースがあり……という感じで、構造が明らかになってきます。すなわち、どのように作られたのかが見えてきます。


心もおなじように、その構造がわかれば自分で心を作ることができるようになります。すなわち、「なんかさみしい」を排除して、あるていど、自分なりに納得のいく心を作ることができるようになります。


さて、心は3つの要素からできています。欲求、べき論、永遠、の3つです。


欲求というのは皆さんよくご存知のとおり、食べたい、寝たい。お金が欲しい、といった気持ちのことです。


べき論というのは、「こうあるべき」という考え方のことです。たとえば、「わたしは彼氏にとってよき彼女であるべきだ」という気持ち。「子どもにとってよき親であるべきだ」「会社の一員としてよきスタッフであるべきだ」などといった気持ち。高校球児は丸坊主であるべきだ、女子高生は放課後にセックスに励むのではなくしっかり勉強するべきだ、など、日本人はなにかと「べき論」が大好きですが、それは日本人特有のイヤな考え方であると同時に、人間に共通の心の作用なのです。


それら以外のもの、すなわち欲求とべき論以外のものを永遠と呼びます。
欲求もべき論もすべて言葉で表すことが可能です。「もっとたくさん寝たい」「もっと出世したい」「わたしは親の期待に応えて東大に行くべきだ」など、欲求とべき論はそのすべてを明確に言葉で表すことができます。


他方、永遠はそのすべてを言葉に表すことができません。

たとえば、彼氏がいるのになんかさみしいという感情。「なんか」というのは「何なのかわからないもの・こと」という意味です。つまり、なんかさみしいという言い方以外では表現のしようのないもの、すなわちそれ以上言語化しようのないものです。


それを「ただぼんやりとした不安」と形容した人がいます。芥川龍之介です。


――自殺の理由を新聞はあれこれと書き立てるけども、僕の場合は、ただぼんやりした不安だ。なにか僕の将来に対するただぼんやりした不安があるのだ――


彼は「或旧友へ送る手記」にこのように記しています。


芥川龍之介なんてわたしに関係ないと思いますか? いやいや、あなたの心もきっと、100年前の人とおなじような動きをしているはずです。


彼氏も家族もいるのに、夜ベッドの中で、なぜか茫漠とした不安に襲われたことがありませんか? 


彼氏とこのままつきあって結婚したいと思いつつも、なぜか将来に対するぼんやりとした不安が立ち湧き、その気持ちの処理に困ったことはありませんか? 


彼氏がいるのになぜか無性にさみしくなってマッチングアプリでやる相手を探したことはありませんか?


ともあれ、心は、欲求、べき論、永遠の3つの要素で構成されているのです。


※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

悩みとは葛藤のこと

先の項では、心は3つの要素からできているとお話しました。すなわち欲求、べき論、永遠の3つです。この項では、その3つはどのような関係にあるのかについてお話します。


どのような関係にあるのか?


葛藤している関係にあります。


欲求とべき論の葛藤。欲求と永遠の葛藤。べき論と永遠の葛藤。この3つの「葛藤が心」です。具体的に見ていきましょうか。


まず欲求とべき論の葛藤について。
たとえば、ダイエット中に無性にアイスクリームが食べたくなるケース。食べたいという欲求と食べるべきでないというべき論が葛藤しています。これは誰もが体感的に理解できますよね。


おなじことが不倫にもいえます。「次こそは不倫にならないように」と心に誓っても、また不倫をしてしまう人が世の中にはいますが、そういう人は心の中で不倫すべきではないというべき論と永遠とが葛藤し、その結果、それでもなぜか不倫をしてしまうということなのです。


いや、そうではない! 不倫は悪だ! と、いまお感じになった方は、太字にしてある「なぜか」をよく味わいつつ再読願います。あなたの善悪や好悪の話をしているわけではありません。


次に、欲求と永遠の葛藤についてみていきましょう。
たとえば、親のことが大好きでずっと実家暮らしを続けたいという欲求をもちつつも、「音楽がわたしを呼んでいる」となぜか強く思いウイーンに音楽留学した、という子のケース。

ちなみにこの場合、子の永遠を理解できる親とそうではない親が存在します。前者は子のことが「なにも言わなくてもわかる」のに対し、後者はいつまでも「あんなに愛情をかけて育てたのに薄情な子だ」と言います。


あるいは、誰かに認めてほしいという欲求をもちつつも、いつも認められる直前にすべてを台無しにするかのごとく「べつに」なんてそっけない態度をとってしまう人のケース。本人は認められる直前まで必死に頑張るんです。しかし、心の中の永遠という魑魅魍魎とした存在がなぜか最後の最後にちゃぶ台をひっくり返してしまう。


あるいはこういうケースも。親に勉強しろとうるさく言われ、イヤイヤ勉強している頭のいい子はいつの時代にもいますが、そういう子の中に、大学入試本番でなぜかついうっかり解答欄を1つずつズラしてマークしてしまった人がいます。「正しくマークしていれば合格した」と、わたしは本人から聞きました。


意図的にずらしたのではないか? といぶかしく思う読者もおられるでしょう。しかし「なぜかついうっかり」なんです。親のために合格すべきというべき論と、本人にもそれが何なのかよくわからない永遠、すなわち謎の存在「X」が葛藤した結果、おそらくは無意識のうちに、最後まで解答欄を1つズラして解答していることに、試験終了を告げるチャイムを聞くまで気づかなかった。


最後に、べき論と永遠の葛藤についてみていきましょう。
たとえば、彼氏にとっていい彼女でいるべき、と思いつつも、彼と会えないとき無性にさみしくなってマッチングアプリでやる相手を探してしまうケース。


これはなにもだらしない下半身ゆえではありません。「いい彼女でいるべき」というべき論と永遠とが葛藤して、永遠がべき論に勝った(勝ってしまった)ということです。


この場合の永遠は具体的に何なのでしょうか? 
さまざまありますが、たとえば、生きていること自体がなんかさみしいと思う気持ちです。彼氏の存在とはまったく独立に、本人の心もちとして、生きているだけでなんかさみしいと思う、そういう人が世間にはいるのです。


以上3つの葛藤において重要なのは永遠です。そいつがいなければ不倫にならずにすんだ。そいつがいるばかりに親の期待にそむく結果になってしまった。つまり、永遠があるからわたしたちは「なんかさみしい」と思ってしまうのです。


欲求もべき論も完全に言葉にできます。寝たい。食べたい。恥ずかしくない生き様であるべきだ。ほら、完全に意味のとおる言葉にできるでしょ?


そこに永遠が加わるからヤバイことになるのです。
寝たい。だがしかし、なんかさみしい。そういった葛藤を抱えたまま寝てしまえばいいものを、ベッドの中でスマホを握りしめてマッチングアプリを開く。さみしさを消してくれそうな相手を探してDMを送り、週末に会う約束をとりつけるまでDMの応酬。実際に週末に会ってセックスしたら、やっている最中はなんかさみしい気持ちが消えてくれた気がするものの、やり終えたら罪悪感やら後悔やらがいっしょくたになって、わけのわからない気持ちが押し寄せてくる。つまり永遠がどっと押し寄せてくる。そしてまた葛藤がはじまる……。


わたしたちの漠然とした悩みはすべて、永遠に由来しています。具体的には、永遠と欲求、べき論が葛藤することに由来しています。

というわけで、次項以降では永遠について具体的にみていきたいと思います。

※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

「なんかさみしい」が生まれる場所とは?

前項では、「なんかさみしい」という気持ちは永遠がもたらしているということについてお話しました。この項では、永遠とは具体的に何なのかについてお話します。

まず、ちょっとむずかしい(?)お話から。
永遠とはキルケゴールが頻繁に使った言葉で、いうなれば「神ではないが神につながっているなにか」(中島義道氏の解釈)です。


その永遠を、フロイトは「死の欲動」と言い表しました。ラカンという精神分析家にして哲学者は「反復強迫」と言い表しました。わたしたちの心の中には自分の意思でコントロールできない何者か「X」が棲みついており、それをキルケゴールは永遠と呼び、フロイトは「死の欲動」と呼び、ラカンは「反復強迫」と呼んだのです。


簡単にいえば、自分の意思でコントロールできないもの「X」に、わたしたちは操られているということ。たとえば「片思いの彼に今日こそは告白しよう」と心に誓っても告白できないのは、その存在者「X」のせいであり、あなたが意志薄弱だからでもなければ、あなたがネクラだからでもないのです。


あるいは、あなたが中学も高校も大学も就職もすべて、「2番目に希望したところ」にしか入れなかったのは、あなたの努力不足が原因なのではなく、謎の存在者「X」が「そうさせたから」です。


この謎の存在者「X」を夏目漱石は『こころ』のなかで「不可思議な恐ろしい力」と呼んでいます。


ひとりの女性を、同時に、2人の男が好きになった結果、「先生」がその女性をゲットすることに成功します。それを知った「Kくん」は自殺します。その後、「先生」は「不可思議な恐ろしい力」に「お前はなにをする資格ももたない男だ」と言われます(というか、言われているような気になります)。


つまり、べき論と永遠が「先生」のなかで(これまで以上に)葛藤するようになるのです。もっとしっかり働いて生活費を得なければ、と「先生」が固く心に誓うたびに「不可思議な恐ろしい力」は「お前にその資格はない」「お前な無能でバカなやつだ」などと言うのです。今でいう「自責的で自己肯定感が低い状態」です。


そんなウツっぽい状態を漱石は「牢屋」と表現しています。とりとめのないものと現実的なものが心のなかで葛藤する状態を経験したことのある人は「牢屋」のくるしさがよく理解できると思います。ようするに、どこかに行きたくても行けない、その「見えない鎖」を解く術すらわからない状態。だから「先生」は、最終的に「死ぬしかない」と思うのです。


これら一連のことを漱石は、「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」状態と書いています。ようするに「なんかさみしい」が『こころ』のテーマなのです。


「なんかさみしい」は永遠がもたらす気持ちです。すなわち、謎の存在者「X」がもたらす気持ちです。言語化不可能な気持ちがもたらす気持ちです。つまり、どれだけ意思を強くもって「今日も明るく元気に!」なんて言ったところで、そんなものは何の役にも立たないのです。なぜかはわからないけれど結果としてそうなったということをわたしたちにさせるものが永遠なのです。


なぜかわからないけれどカッとなって子どもに八つ当たりしてしまった?


あ、それ、永遠のしわざです。


なぜかわからないけれど、恋人に「別れよう」と口走ってしまった?


あ、それも永遠のしわざです。


なぜかわからないけれど、酔っぱらって電車内で女子のケツを揉んでしまった?


あ、それも永遠のしわざです。


世間では酒に酔っていた痴漢に対して、酒を飲んだことを考慮に入れて刑罰を決定すべきか否かという議論がときになされますが、ケツを揉みたくなるまで酒を飲んだのは本人の意思でありつつも、本人の心のなかの存在者「X」、すなわち御しがたいアイツ、すなわち永遠のせいです。


しかしだからといって、


「いやー、なんかさみしくなってケツ触ったんでしょ? 無罪、無罪!」


なんてことを言う裁判官はいません。法律の世界は「すべてが言葉」だから、永遠という完全に言語化不可能なものは捨象されるのです。


※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

自分の無意識を知る方法とは?

無意識って、フロイトの論理を少し知っている人からすれば、今や覚えていない幼少期のなんらかの経験のことであり、それがなんらか魑魅魍魎なことを引き起こす、とか、なんかわけのわからないものだと思っているのかもしれません。

がしかし、べつに魑魅魍魎なものではありません。


無意識は私たちの目の前に現れています。

たとえば、いつも同じ失敗をして人間関係が切れる、というかたちで、私たちの前に顕現しています。

たとえば、最初は「いい人」として相手と接して、やがて「いい人」を演じるのに疲れ果て、ある日突然相手に悪態をついて疎遠になる、とか。そしてそれが「毎回」同じように繰り返され、その結果、わたしは友だちがいない、という「かたち」で――。


あるいは祖父母同様、わたしも兄弟の血がうすい――なぜか知らねど兄弟と疎遠だ――という「かたち」で。


あるいは、性欲に毎回負けてつい風俗に通い、その結果、40歳を過ぎても貯金がないという「かたち」で――。


あるいは、男を「ATM」として利用して自分は経済的繁栄をおさめるも、気づいたらなんかさみしいと思ってしまうという「かたち」で――。


つまり、「最初に無意識あり」ではなく、ある現象が無意識に存在しているわたしたちの考え方のクセや不幸になるパターンを「示唆している」のです。

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