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親子関係と自己肯定感

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自分の親を毒親という人が救われない理由とは?

自分の親のことを毒親と言う人は救われない。

その理由を簡単にいえば、誰かのことを憎んでいるうちは心が過去につながれたままだからです。そんな状態では、いかに救いの手を差し伸べられたところで、それが見えないからです。


いいえ、本人は目でちゃんと見ているのですが、こころが見ていないので見えていないのです。だから救われません。

憎しみは何も生み出さないというのは、そういうことです。


より本質的には、私たちは2世代前の人の性格、すなわち4人の祖父母の性格を遺伝的に引き継いでいます。


つまり、私の性格は4人の祖父母の性格の総合値です。


ということは、親は私から見た、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんの性格をひいています。


つまり親子は、それぞれ別の人の性格を遺伝的に引き継いでいます。


難しいことを抜きにして、そのことを簡単に言えば、親子関係というのは凸凹の関係だということです。


親が凸なら、子どもは凹。

反対に、親が凹なら子どもは凸といった具合に。


したがって、親子で仲がいいというのは、自分とは違う存在を認めあっているということで、非常に美しいことなのです。


反対に、喧嘩ばかりしている親子とか、自分の親のことを毒親と言う子は、自分と違う存在を認めることのできない人です。美しくない。


毒親に精神的に虐げられたなど、さまざまな現実的な被害ゆえに、自分の親を毒親という気持ちは分かります。私も30年間そうだったので、とてもよくわかります。


しかし、私は祖父母の血を引いており、両親は私から見たひいおじいちゃんひいおばあちゃんの血を引いている。


その違いを認めるしかありません。


簡単に言えば、親には親の事情があるということです。


そのことに真に気づいて、驚いたとき、自分の親を毒親と思わない優れた人格が生まれます。


最後にひとつ。


自分の親を毒親と言っている人が救われない理由は、それが原理主義だからです。

私は被害者、親は加害者、という見方、すなわち私は正しくて親は間違っているという見方。これを原理主義といいます。


すなわち多様性を認めることの対極に位置する考え方です。


そんな考え方では救われない。

とは言うものの、かつての私がそうだったように、親を憎みたいときは憎むしかないですから、とことん憎むといいと思います。


やがて、ある出来事がきっかけとなって憎む気持ちが薄れてきます。それは例えば、自分の親を悪く言うことは恥ずかしいと意識したときであったり、近親者の死だったりします。

自己肯定感の高い子どもに育てる方法

自己肯定感の高い子どもに育てる方法は1つ。

子どもの本当はこうしたいという気持ちを絶対に踏みにじらないことです

とても簡単なことです。親が「勉強しろ、勉強しろ」というから、子どもの自己肯定感が低くなります。


反対に、親が「こうまで勉強しなくても大丈夫なのかな」と心配しつつも、子どもがやりたいこと(たとえばサッカーとか音楽とか)をやらせておけば、子どもは勝手に成長し、親が思ってる以上に立派になります。


例えばスポーツ推薦で日体大に進学したとか。早稲田に進学したとか。

あるいは音楽をやっていたら不思議と東京芸大に合格してしまったとか。

ところで、親子は凸凹の関係です。親子関係は先祖代々凸凹凸凹凸凹というふうについています。


これは精神分析における定説です。


祖父母が凹、親は凸、子は凹、その子が産んだ子は凸、というふうになっています。


つまり、親と子は 2人でワンペアであり、違ったものを持っているということです。


子と似たようなものを持っているのは、おじいちゃんおばあちゃんです。


だから、親がどれだけ心配して「勉強しろ勉強しろ」と言ったところでそれは百害あって一利なしどころか、大きなマイナスにしかならないのです。


「勉強しろ」と言うぐらいなら、親にとっての親、すなわちおじいちゃん、おばあちゃんがどのような生き様だったのか、何が得意だったのか、どのように振る舞ったとき成功したのか、失敗したのかというような特徴をよく知って、それを子どもに伝えてあげることです。


それこそが子が生きていく「戦略のもと」になるからです。


ともあれ、自己肯定感の高い子にしようと思えば、子が「本当はこうしたい」と思っている気持ち――子にとってきわめて切実かつ誠実な気持ちを踏みにじらないことです。

「いい子」はなぜ「いい子」なのだろうか?

――「いい子」はまわりを気遣い、相手との衝突を避けるために、自分の真の気持ちや感情を隠して生きることが多い。その結果、表向きは特に問題がないように見えるが、その内側では、ストレスや感情の抑圧が体に「しんどさ」という症状として現れてくることがある。


もう聞き飽きるほど聞いている「いい子」の症状説明です。



ところで、「いい子」はなぜ「いい子」なのでしょうか?



例えば、親に「勉強しろ」と言われて素直に勉強する子は、なぜ素直に勉強するのでしょうか?


「いや、私は遊びたいです」と言って遊んでもいいのではないでしょうか?


なのになぜ勉強するのでしょうか?



勉強するだけならまだしも、勉強した結果、親が希望する学校に進学する「いい子」もいます。



親の言いつけどおり勉強しました。親の言いつけどおりの学校を受験しました。合格しました。となった瞬間、「はい。では今日限りで私は勉強しません。私は近所の公立の学校に通います」と、声高らかに宣言した子もいるのに、「いい子」はなぜいつまでも親の言いつけどおり勉強し、親の希望に沿う学校に行くのでしょうか?



答えは祖父母のうちの誰かが、相手の気持ちを慮るとても優しい性格の持ち主だったからです。



親が毒親だからしぶしぶ親の言うことを聞いた――最近の人はこのように言いますが、じつは性格というものは2世代前の人、すなわちおじいちゃん、おばあちゃんのそれを引き継いでいるのです。



今の時代は何でもかんでも毒親のせいにしてしまえばそれで説明できると思ってる人が多いので、2世代前の人の性格を引き継いでいるというラカンの主張は非常に立場が弱いものです。



しかし、何でもかんでも毒親のせいにしてしまえば、そこで思考が止まってしまいます。なぜなら「とりあえず毒親を憎んだきゃ私の自己肯定感の低さは説明がつく」と思ってしまうからです。

その結果、憎しみが癒えず、親が真でもなお親を憎む人が出てきます。



おじいちゃん、おばあちゃんのうちにものすごく優しい性格の持ち主がおり、その人の性格を濃く受け継いだので、あなたは毒親の言うことにおとなしく付き従う性格になったのです。



さて、ここからどうしましょうか?



僕ならその心優しい性格のおじいちゃん、おばあちゃんがどのような生き様だったのか、どのようにして幸福になることができたのか?、調べ尽くします。


情報が枯渇しているのであれば、どこまでも想像します。


毎日そのおじいちゃん、おばあちゃんと心の中で対話し、彼・彼女を無二の親友として生きます。


自己肯定感を高めるというのは、例えばそうすることなのです。

毒親から「解毒」できない理由とは?

毒親から解毒できない、すなわち毒親から物理的・心理的にしかるべき距離をとることができない理由は1つ、あなたが毒親のことを憎んでいるからです。


憎むとなぜ解毒できないのでしょうか?

これも理由は1つです。

あらゆる他人の背後に毒親を見てしまうからです。


例えば、あなたに何の危害も加えないどころか、よくしてくれる人に対して、あなたは「この人も毒親のようにいずれ私のことを騙すのだろうか?利用するのだろうか?」と考えてしまう。


これは明らかに、目の前のAさんを見ているようで、実はAさんをとおして毒親を見てしまっているということです。


すべてにおいて毒親を見てしまうということは、すなわち過去を見てしまう、すなわち、あなたの心は四六時中過去に縛られていることを意味します。


それに対し、解毒とは「今ここ」です。

過去に縛られている心を解き放し、今この瞬間をいきいきと生きることができるようになる状態。これを解毒と言いますよね。


さて、ではどうすれば、憎しみの気持ちは消えてくれるのでしょうか?


これには3つあると僕は考えます。


1つは、死生観が大きく変わる出来事に遭遇した時に憎しみの感情がなぜか消えるというものです。


例えば、近しい人の死を経験することによって、毒親に対する憎しみがなぜか和らぐということがあります。



2つ目は、憎んで憎んで憎み倒して憎み疲れたときに、ふっと力が抜けて、なんとなく解毒が始まるというものです。



3つ目。
これは「もしできれば」という但し書きをつけて述べますが、もしできれば親の事情を考えてみるということです。


毒親はある日突然毒親になったのではありません。
例えば、子供の頃、兄姉にいじめられて育ってきたので兄姉を見返したいという思いが強く、その結果、毒親になったのかもしれません。



あるいは子供のころ貧しくて、その貧しさが何らかの出来事を誘発し、その結果、メンタルを病んだのかもしれません。



あるいは、あなたのお母さんは中学生の頃、学校でいじめられていたのかもしれません。


つまり、毒親には毒親なりの事情というものがじつはあり、それを知る、あるいは想像することによって解毒が始まるということです。


いずれにせよ、毒親を憎む気持ちが自己肯定感の高まりを阻害しているのですから、どうにかしてその気持ちを解放してあげる必要があります。

それさえできれば、あとのことは自動的にどうにかなりますので、放っておいても大丈夫です。

毒親育ちの人を精神分析したら・・・

毒親育ちの人の特徴は、たとえば以下だとされているようです。

死んでも実家に帰りたくない

緊急連絡先を書きたくない

躾という名の洗脳

他人に相談出来ない辛さ

鍵を回す音が嫌い

介護するくらいなら絶縁する

などなど。


そういう毒親育ちの心の中は、たとえば以下のように説明されています。


――他者からよく見られたい、好意を勝ち取りたいという強い願望を抱えて生きます。彼らは誰からも拒絶されたくないという恐れから、人を喜ばせ、評価されるために無尽蔵のエネルギーを注ぎます。それは、彼らが愛情を受けるために、他人の期待に応えることがどれほど重要であると学んだ結果です。その根底には、他人との繋がりと承認を切望する心、そして、自己を犠牲にしてでもその願望を満たそうとする深い不安と渇望が存在します――


毒親育ちとひとくちに言ってもさまざまなケースがあるので、一概には言えないものの、上記のような特徴をもっている毒親育ちの方もいらっしゃるでしょう。


さて、心理哲学にみる親育ちの人の心は、つねに葛藤している点に特徴があります。

「親きらい」という自分と「親に好かれたい、親を好きになりたい」という2人の自分がつねに心のなかで葛藤している。


だから苦しい。


むろん、葛藤などなく、ただただ「親死ね」としか思っていない人もきっといるでしょう。しかし、そういう人だって、嵐がおさまれば、すなわち憎しみが薄れると葛藤が生じるでしょう。


「親きらい」というのは、現実に親にイヤなことをされている「この自分」が思っていることです。


他方、「親に好かれたい、親を好きになりたい」という「理想」を夢想するのは、これは自分の意思を超えた「なんらか」が、あなたの心にもたらしている気持ちです。


その「なんらか」のことを、夏目漱石は「不可思議な恐ろしい力」と呼びました。ラカンは反復強迫と名付けました。キルケゴールは永遠と名付けました。


つまり、毒親に起因する生きづらさとは、「この自分」と「永遠」の葛藤が原因なのです。


さて、その葛藤をどうしたものか?


永遠とは、心のなかの非言語領域のことなので、まだ言葉になっていない気持ちを少しずつ言語化してあげる。このことで救われる可能性があります。


あるいは、ラカンは「不幸は2世代前の繰り返しだ」と言っています。つまり、あなたが毒親にあたって苦しんでいるのは、祖父母もおなじだった可能性が高いということです。祖父母の生き様を知り、理解し、共感することで、祖父母を無二の友として生きる――そうすることで救われる魂もきっとあるでしょう。


漱石は・・・・若くして胃潰瘍でお亡くなりになりましたが、則天去私でしたっけ? なんかおっしゃってましたね。


天、すなわち私たちの意思を超えた存在者「X」。こいつにすなおに従って生きようぜ、です。


天をラカンは「2世代前の反復」と言っていますが、とどのつまり、自分が乗せられている大きな運命を知ろうということです。


どうやって知るのか?


永遠を少しずつ言語化したり、祖父母の生き様を知ることで、少しずつ見えてきます。


見えたものは、あなたの生涯の財産になります。

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