哲学で心を見つめるオンラインカウンセリング|人見アカデミー【公式】

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🩵 心がしんどいときに読む

落ち込む自分を責めないために ― 「心」と「精神」を分けてみる

「なんだか最近、気持ちが沈む」
「理由もなく焦ってしまう」
そんなとき、私たちはつい“病気”という言葉を思い浮かべます。

もちろん、医学的な支援が必要な場合もあります。
けれど、心が落ち込むという現象をただの異常や故障として扱ってしまうと、
その奥にある「自分からのメッセージ」を見失ってしまうことがあります。

哲学的に見るなら、“落ち込み”は治すべき不具合ではなく、
「心」と「精神」のバランスが揺れている状態なのです。


「心」と「精神」は同じではない
心理学では「心」を、脳や感情の働きとして扱うことが多いですが、
哲学の世界では「心」と「精神」は別のものとして考えられます。

心とは、日々の出来事に反応する“感情の表面”。
うれしい・悲しい・腹立たしい・不安――
そうした“今ここ”の感情の動きが、心の領域です。

一方で、精神とはもっと深い層にある“存在そのもの”。
「私はなぜ生きているのか」「どんな自分でありたいのか」といった、
意味や価値にかかわる部分です。


うつっぽさは「心」が疲れているサイン
落ち込みや焦りは、精神が弱っているのではなく、
心が“現実に反応しすぎている”サインです。

感情が揺れるのは、あなたが誠実に生きている証。
自分の置かれた状況に敏感であるということです。

だから、「落ち込む自分」を責める必要はありません。
むしろ、それは“感じる力”が働いている証拠なのです。


精神を取り戻すための小さな方法
焦りや不安に押しつぶされそうなときは、
「私は今、心が疲れているだけ」とそっと区別してみてください。

そして、深呼吸をひとつ。
目を閉じて、「私はここにいる」と静かに感じてみる。
それは、“精神の声”を取り戻す小さな練習です。

精神の声は、決して焦らせません。
「まだ大丈夫」「ゆっくりでいい」
そう語りかけてくれるのが、精神の働きです。


おわりに
落ち込む自分を責めるのではなく、
「今は心が揺れているだけ」と受け止めてみてください。
その瞬間、あなたの中に“もう一人の穏やかな自分”――精神が立ち上がります。

心は波のように揺れる。
精神は、その波の下で静かに息づく海のようなもの。

その静けさに触れたとき、あなたの中に少しずつ「安らぎ」が戻ってくるでしょう。

爆弾を抱えて生きるということ ― 映画『爆弾』をきっかけに考える、心の中の“永遠” ―のコピー

先日、ワーナーさんから映画『爆弾』の試写にご招待いただきました。この作品を観て、改めて「人はみな、自分の中に誰にも理解されないものを抱えて生きている」ということを深く考えさせられました。

■ 自分にしかわからない気持ち
たとえば、どうしようもなく誰かを憎む気持ち。それは、本人にしかわからないものです。

他人に「そんなに怒らなくても」「あの人にも良いところがある」と言われても、なぜそこまで憎いのか、自分でもうまく説明できない。

理由をたどっていっても、最後は「とにかく憎い」としか言えない場所にたどり着くことがあります。

哲学者キルケゴールは、こうした「自分の内側にしか存在しない何か」を永遠(eternity)あるいは無限性という言葉で表現しました。

「永遠」と聞くと美しい響きがありますが、彼のいう永遠は、崇高なものと同時に、狂気や破壊の可能性も含む概念です。つまり、人間の心には、誰にも理解されない「狂気の種=爆弾」がひそんでいるのです。


■ 爆弾が向かう先
自分の中の「爆弾」は、ときに他者に向かうことがあります。たとえば、自分の人生に絶望した人が自暴自棄になって、誰かを傷つけてしまうとき。

しかし、本当に闘うべき相手は「他人」ではありません。それは、自分の心の奥にすくっている“永遠”です。

他者を傷つける行為の原因は、他者ではなく、自分の中にある理解不能な何か。人は、その「永遠」と向き合う勇気を失ったとき、誤って他者に牙を向けてしまうのです。


■ 善良な市民の仮面の下に
私たちの多くは、心の爆弾が爆発しないよう注意深く生きています。「今日は仕事が嫌だから海に行ってくる」――そんな衝動をそのまま行動に移すことは、社会では許されません。

私たちは「永遠」が語りかけてくる何かを聞かないふりをして、今日も「真面目な社会人」「善良な市民」としてふるまいます。

その裏側で、誰もが小さな爆弾を抱えながら暮らしている。それが、私たちの社会の静かな前提なのかもしれません。


■ 他人の爆発を「自分と無関係」とは言えない
ニュースで誰かが犯罪を起こすと、「ひどい人だ」「家族もかわいそうに」と私たちは言います。

もちろん、犯罪は許されません。けれども、「爆発した人」を一方的に切り捨てることで、自分の中にも同じような爆弾があることを、見ないようにしているのかもしれません。

たまたま爆発しなかっただけで、私たちも同じ人間です。社会は、爆弾を抱えた人間たちが共に生きている場所なのです。


■ 爆弾を抱えて生きる勇気
私たちは皆、心の奥に小さな爆弾を抱えています。それを無理に否定するのではなく、ただ「そこに存在するもの」と自覚して生きること。

その自覚こそが、他者への理解の第一歩であり、人が人として成熟していくための哲学的な態度なのではないでしょうか。

人見アカデミー哲学コラム 
– 自分の中の「永遠」と向き合うために –

科学では解けない心の不思議 ― キルケゴール『死に至る病』から考える

私たちは、心が落ち込んだり、理由もなく不安になったりするとき、つい「脳の働きが悪いのでは」「ホルモンのバランスが崩れているのでは」と考えがちです。
確かにそれは一理あります。精神科や心理学の研究が、心のメカニズムを「科学的に」明らかにしようとする努力は尊いものです。
けれども、心のもやもやには、科学では説明しきれない部分があります。それは「意味」や「価値」といった、目に見えない領域に関わるからです。
哲学が見つめる“心の不思議”
例えば、朝日を浴びてセロトニンを増やそう、という話があります。もちろん、それは科学的にも正しい方法でしょう。でも、愛する人を失った悲しみは、セロトニンを増やしたくらいでは消えてくれません。心の奥にある「喪失の意味」や「生きる痛み」は、数値やデータでは測れない“もうひとつの心の領域”にあるのです。
キルケゴールが語った「心の病」とは
19世紀デンマークの哲学者、キルケゴールは『死に至る病』の中で、「絶望」という状態を、人間が“自分自身であること”との関係の中で説明しています。
彼によれば、絶望とは「自分であることを拒むこと」や、「自分であろうとしてもなれないこと」といった状態を指しているようです。
つまり、キルケゴールにとって“病”とは、医療で治す対象ではなく、「自分という存在への葛藤」そのものでした。鬱的な状態や自己否定の根底には、「本当はこう生きたいのに、現実の自分はそうできない」という分裂があります。
この“二人の自分”のあいだで揺れる苦しみこそが、キルケゴールのいう「心の病」です。
現代の私たちへのヒント
いまの社会は、「ポジティブに生きよう」「自分を変えよう」と励まします。しかし、哲学の立場から見ると、“変わろうとする前に、まずは見つめること”が大切です。
キルケゴールの言葉に耳を傾けると、「もやもやしている自分」もまた、生きる意味を探している途中なのだと気づきます。その気づきがあるだけで、心の重さはほんの少し軽くなります。なぜなら、それは「治す」ではなく、「理解する」ことだからです。
おわりに
心の不思議は、科学やデータでは完全に解けません。けれど、哲学の対話を通してなら、そのもやもやの“形”や“輪郭”を少しずつ見いだせます。あなたの感じている痛みも、もしかしたら「生きる意味」を探す途中なのかもしれません。
心は、治すものではなく、理解していくもの。その歩みを、哲学という灯りで、ゆっくりたどっていきましょう。

悲しみの中で見つける希望 ― 喪失と向き合う哲学的カウンセリング

大切な人や場所、時間を失ったとき、
世界が突然、色を失ったように感じることがあります。
何をしても心が動かず、
時間だけが無機質に流れていく――。

そんなとき、人は「どうすれば立ち直れるのか」を探します。
けれども、哲学の視点から見れば、
悲しみとは“立ち直る”ものではなく、“通り抜けていく”ものです。


喪失は「意味の崩壊」
誰かを失うということは、
単にその人がいなくなるという物理的な変化だけではありません。
それは、自分の世界の意味構造が崩れるという出来事でもあります。

「この人がいるから頑張れる」
「この場所があるから自分でいられる」――
そうした“世界の支え”が突然消えるとき、
私たちは何を拠りどころに生きればいいのか分からなくなります。

悲しみとは、世界との関係が一度失われること。
そしてそこから、新しい関係を結び直していく過程でもあります。


哲学が教える「悲しみを急がない」
ヴィクトール・フランクルは、強制収容所という極限状況の中でこう語りました。

「人は意味を見失うと、生きる力を失う。」

彼にとって、希望とは感情ではなく“意味の再発見”でした。
喪失の悲しみをすぐに癒やそうとするのではなく、
その出来事の中にどんな意味が潜んでいるかを問い直すこと。
それが、哲学的カウンセリングの姿勢です。

たとえば、
「なぜこの別れを経験したのか」ではなく、
「この悲しみを通して、私は何を感じ、どう生きたいと思うようになったか」。
問いの向きを変えることで、悲しみの中に小さな光が見え始めます。


「希望」とは、悲しみを否定しないこと
悲しみを消そうとすることは、自分の一部を否定することに似ています。
本当に希望が芽生えるのは、悲しみを押し込めたあとではなく、
その悲しみを自分の中に居場所をつくってあげたときです。

涙は、失った人や時間が確かに“自分の人生の中に存在していた”ことの証。
それを感じきることができたとき、
悲しみは「絶望」ではなく、「つながりの記憶」へと変わっていきます。


おわりに
喪失の痛みを完全に消すことはできません。
けれども、そこから“意味”を見いだすことはできます。

希望とは、悲しみの向こうにある光ではなく、
悲しみそのものの中に宿る静かな灯りのこと。

哲学的カウンセリングは、
その灯りを一緒に見つけていくための時間です。
あなたの悲しみの中にも、まだ確かに“生きる力”が息づいています。