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なぜ若者は働かなくなったのか──キルケゴール哲学で読み解く「静かな退職」とこの国の絶望

なぜ若者は「辞めずに、何もしなくなった」のか

退職はしない。
しかし、言われたこと以上はやらない。
昇進も成長も、最初から望まない。

近年話題になっている「静かな退職」と呼ばれる若者の姿は、単なる怠慢でも反抗でもありません。
それは、希望を失った社会における、極めて合理的な生き方です。

ビジネスメディアでも指摘されている通り、若者はもはや「頑張れば報われる」という物語を信じていません。
努力と未来が結びつかない以上、労働に全力を注ぐ理由が見つからないのです。


希望がなければ、人は働かない

人はパンのためだけには働きません。
人が本当に動くのは、

・この行為は何につながるのか
・自分の人生にどんな意味があるのか

そうした未来への見通し=希望があるときです。

しかし今の日本では、
賃金は上がらず、将来不安は増し、
「個人の努力」でしか説明されない社会構造が広がっています。

この状況で若者がやる気を失うのは、自然な反応です。
問題は若者ではなく、希望を語れなくなった社会の側にあります。


キルケゴール哲学における「絶望」とは何か

この状態を深く理解するために有効なのが、
19世紀デンマークの哲学者 セーレン・キルケゴール の「絶望」概念です。

キルケゴールにとって、絶望とは感情ではありません。
それは、
「自己であろうとしない状態」
あるいは
「自己であろうとするが、その自己を誤って理解している状態」

つまり、
「自分の人生を、自分の問題として引き受けられなくなった状態」
こそが絶望なのです。

重要なのは、絶望している本人がそれに気づいていない場合が多いという点です。


「言われたことだけやる若者」は、どの絶望か

静かな退職を選ぶ若者は、苦しんでいるようには見えません。
怒りも悲しみもなく、淡々と仕事をこなしています。

しかしキルケゴール哲学の観点から見れば、これは明確に
「自己であることを放棄した絶望」です。

・自分は何をしたいのか
・どんな人生を生きたいのか

そうした問いを立てること自体を、最初から諦めている。

これは「絶望している」のではありません。
絶望する力すら失っている状態です。


静かな退職とは「絶望しないための最適化」である

ここに、現代的な逆説があります。

本来、絶望とは苦しいものです。
しかし、深い絶望は人を問いへと導きます。

ところが今の若者は、
苦しまない代わりに、問いも立てない。

静かな退職とは、
これ以上傷つかないために、自己を縮小させる戦略なのです。

それは社会に適応しているようでいて、
実は自己を放棄することでしか生きられない構造を映しています。


人見アカデミーが考える「健全な絶望」

人見アカデミーが大切にしているのは、
前向きさでも、ポジティブ思考でもありません。

むしろ、

・なぜあなたは、ここで立ち止まったのか
・何に違和感を覚えたのか
・どんな生き方なら、引き受けられるのか

こうした問いを、言葉にすることです。

キルケゴールが示したように、
絶望は「自己になるための入口」でもあります。

問題は絶望そのものではなく、
絶望を問いへと変える場が失われていることです。


この国に必要なのは「希望のスローガン」ではない

希望は、上から与えられるものではありません。
政策でも、掛け声でもありません。

それは、

「それでも、この人生を自分のものとして生きたい」

そう言える理由を、自分自身で見つけたときに生まれます。

若者が働かなくなったのは、
この国に絶望しかないからではありません。

絶望を意味へと変換する言葉と場が、あまりに少ないからです。

人見アカデミーは、
その言葉を、もう一度生きた問いとして取り戻す場所でありたいと考えています。

無駄を排除すると心が死ぬ理由 ―― タイパ・コスパ至上主義と科学的合理性の限界

「タイパ」「コスパ」という言葉が、当たり前のように使われる時代になりました。
時間対効果、費用対効果を最大化すること。
短時間で成果を出し、無駄を排除し、合理的に生きること。
現代社会では、それが疑いなく「正しい生き方」とされています。

この価値観の背景にあるのは、経済至上主義と科学的合理性です。
数値化できるもの、データで示せるもの、再現可能なものだけが評価され、
制度やシステムとして社会に組み込まれていきます。
逆に言えば、データに上がらないものは「存在しないもの」として扱われがちです。

学校も会社もおなじ
学校も会社も、基本的にはこの論理で設計されています。
成果が測れない活動、目的が曖昧な時間、遠回りに見える思考。
それらは「非効率」「無駄」として、できる限り削ぎ落とされていきます。

しかし、その合理性の中で生き続けたとき、
私たちの心は本当に生きていられるのでしょうか。

実際には、無駄や余白が失われた環境で、
心がすり減り、思考が浅くなり、意欲を失っていく人は少なくありません。
にもかかわらず、多くの教育現場や職場は、この問題を正面から扱いません。

理由は明確です。
「無駄が大事だ」「余白が必要だ」と主張しても、
それを完全に裏づける科学的根拠が存在しないからです。
今の社会では、エビデンスがなければ制度にできない。
データに表れないものは、議論の俎上にすら乗りません。

まさに「それがあった」という事実
けれども一方で、
「ある程度の無駄や余白がなければ、人の心は死んでいく」
そう語り続けてきた人たちがいます。
医学、哲学、自然科学など、分野は違えど、
長い思索と実践を通して同じ結論に至った人たちです。

重要なのは、その主張が科学的に証明されているかどうかではありません。
彼らが実際に、豊かな人生を歩んできたという事実です。
効率一辺倒ではない時間を持ち、
遠回りをし、立ち止まり、説明できないものと向き合いながら、
深く生きてきたという現実です。

もし「無駄がなければうまくいかない」と語る人が現に存在し、
しかもその人たちが人生を通して成熟してきたのだとしたら、
私たちはその無駄を「なかったこと」にしてよいのでしょうか。

そこに科学的根拠があるかないか以前に、
そこに確かに存在しているものを、存在しているまま認める。
私はその姿勢こそが、これからの社会に必要だと考えています。

勉強ができるようになるシステム。
会社がうまく回っていくシステム。
それらを設計する際に、
成果に直結しない時間、目的の定まらない思索、
一見すると無駄にしか見えない余白をあらかじめ組み込んでおく。

効率の外側にあるものを、最初から排除しない。
説明できないものを、説明できないまま残しておく。
それは非合理なのではなく、人間に対して誠実であるということです。

科学が隠してしまったもの
科学的根拠があろうとなかろうと、
まさにそこに「ある」ものを、ないことにはできません。
むしろ、その存在を前提にしてシステムを設計すること。
それこそが、心を殺さずに生きるための一つの方法なのだと思います。

無駄を許すことは、怠けることではありません。
余白を残すことは、後退ではありません。
それは、人が人として生き続けるための、最低限の条件なのです。

正しさの呪縛から自由になる。理由のわからない気持ちを使った目標設定法

私たちは日々、
「正しい生き方をしなければならない」 という無言の圧力の中で暮らしています。
学校でも職場でも家庭でも、正しさに合わせたほうが安全で、
失敗しても批判されにくいからです。

しかし、この “正しさの呪縛” は、
多くの人が感じている生きづらさの大きな原因でもあります。


生きづらさの正体は「理由のつかない気持ち」を無視すること

生きづらく感じるとき、
多くの人は「正しいかどうか」「役に立つかどうか」で判断しがちです。
その結果、心の奥にある小さな声──
説明できない気持ち、理由のつかない違和感が置き去りになります。

・なぜか気になった出来事
・理由はないのに引かれる方向
・言語化できない「しっくり感」

これらはすべて、あなたの内側からのサイン。
正しさとは別のところで、あなたを導こうとする大切な手がかりです。


気持ち込みで目標をつくると、心が軽くなる

多くの人は「正しい目標」を設定しようとして苦しくなります。

・評価されるか
・間違っていないか
・将来の役に立つか

この基準だけで目標をつくると、
それは「自分自身の目標」ではなくなり、達成しても満たされません。

そこで大切なのが、
“気持ち込み”で目標をつくる方法です。

「理由は説明できないけれど大切だと思う」
「自分でもよくわからないのに心が動く」
「なぜかこの方向だけは気になる」

こうした感情をそのまま目標に反映させると、
不思議と心が軽くなり、前向きなエネルギーが戻ってきます。
それは、あなたの本音と行動がようやくつながった瞬間です。


正しさよりも、あなた自身の“温度”を大切にする生き方へ

生きづらさから抜け出す鍵は、正しさではなく“自分の温度”に気づくこと。

あなたの心が動いた瞬間には、必ず理由があります。
言語化できなくても、それはあなたの人生を形づくる材料です。

人見アカデミーでは、
こうした「理由のつかない気持ち」「小さな違和感」も含めて、
あなたの探究心を育て、自己理解を深めるお手伝いをしています。


まとめ:正しさの呪縛を手放すことで、人生は動き始める

・正しさの呪縛は、生きづらさを生む
・理由のつかない気持ちこそ、自己理解の鍵
・気持ち込みの目標設定で心が軽くなる
・正しさよりも「自分の温度」を大切にする

あなたの中にある小さな気持ちを、どうか無視しないでください。
そこに、あなたが望む未来の入口があります。

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あなたの探究心が、ここからまた動き出しますように。

理由もなくしんどい日の正体とは?

朝起きた瞬間から、なんとなく心が重い。
いつも通りの1日のはずなのに、やる気が出ない。
周りから見れば何も問題はないのに、自分だけが置き去りになったような感覚になる──。

こんな「理由のわからないしんどさ」が訪れるのは、
あなたの心が弱いからではありません。

むしろ、ずっと気づかないふりをしてきた気持ちが、
ふとした瞬間に「ここで立ち止まってほしい」と
静かに合図を送っているだけのことです。

心には、
・処理しきれなかった不安
・うまく言葉にならなかった寂しさ
・後回しにしてきた本音
こうしたものが少しずつ溜まっていく仕組みがあります。

そして、限界を超える少し手前で、
身体の不調ではなく、“心の重さ”という形で現れる。

多くの人は、この状態を
「怠けている」「自分がだめだ」と誤解してしまう。
でも本当は、心があなたを守ろうとしているだけなのです。

しんどさは、敵ではありません。
これまでも無理をしながら生きてきたあなたに、
“ここで一度、自分に優しくしてほしい”と知らせている。
そのサインに気づけた人から、ゆっくりと回復していきます。

今日このコラムを読んだあなたは、
たぶん、ずっとひとりで頑張り続けてきた人です。

しんどくなるのも、当然なんです。
むしろ“しんどくなるまで頑張れた”という事実を
どうか忘れないでほしい。

理由のないしんどさは、
あなたの弱さではなく、あなたの繊細さの証拠です。

その繊細さを責めるのではなく、
大切に扱ってあげるところから、
本当の回復が始まります。

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理由のないしんどさ

自分を責めてしまう瞬間

夜になると不安が大きくなる理由

生きづらさの正体

心が軽くなる哲学

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落ち込む自分を責めないために ― 「心」と「精神」を分けてみる

「なんだか最近、気持ちが沈む」
「理由もなく焦ってしまう」
そんなとき、私たちはつい“病気”という言葉を思い浮かべます。

もちろん、医学的な支援が必要な場合もあります。
けれど、心が落ち込むという現象をただの異常や故障として扱ってしまうと、
その奥にある「自分からのメッセージ」を見失ってしまうことがあります。

哲学的に見るなら、“落ち込み”は治すべき不具合ではなく、
「心」と「精神」のバランスが揺れている状態なのです。


「心」と「精神」は同じではない
心理学では「心」を、脳や感情の働きとして扱うことが多いですが、
哲学の世界では「心」と「精神」は別のものとして考えられます。

心とは、日々の出来事に反応する“感情の表面”。
うれしい・悲しい・腹立たしい・不安――
そうした“今ここ”の感情の動きが、心の領域です。

一方で、精神とはもっと深い層にある“存在そのもの”。
「私はなぜ生きているのか」「どんな自分でありたいのか」といった、
意味や価値にかかわる部分です。


うつっぽさは「心」が疲れているサイン
落ち込みや焦りは、精神が弱っているのではなく、
心が“現実に反応しすぎている”サインです。

感情が揺れるのは、あなたが誠実に生きている証。
自分の置かれた状況に敏感であるということです。

だから、「落ち込む自分」を責める必要はありません。
むしろ、それは“感じる力”が働いている証拠なのです。


精神を取り戻すための小さな方法
焦りや不安に押しつぶされそうなときは、
「私は今、心が疲れているだけ」とそっと区別してみてください。

そして、深呼吸をひとつ。
目を閉じて、「私はここにいる」と静かに感じてみる。
それは、“精神の声”を取り戻す小さな練習です。

精神の声は、決して焦らせません。
「まだ大丈夫」「ゆっくりでいい」
そう語りかけてくれるのが、精神の働きです。


おわりに
落ち込む自分を責めるのではなく、
「今は心が揺れているだけ」と受け止めてみてください。
その瞬間、あなたの中に“もう一人の穏やかな自分”――精神が立ち上がります。

心は波のように揺れる。
精神は、その波の下で静かに息づく海のようなもの。

その静けさに触れたとき、あなたの中に少しずつ「安らぎ」が戻ってくるでしょう。

爆弾を抱えて生きるということ ― 映画『爆弾』をきっかけに考える、心の中の“永遠” ―のコピー

先日、ワーナーさんから映画『爆弾』の試写にご招待いただきました。この作品を観て、改めて「人はみな、自分の中に誰にも理解されないものを抱えて生きている」ということを深く考えさせられました。

■ 自分にしかわからない気持ち
たとえば、どうしようもなく誰かを憎む気持ち。それは、本人にしかわからないものです。

他人に「そんなに怒らなくても」「あの人にも良いところがある」と言われても、なぜそこまで憎いのか、自分でもうまく説明できない。

理由をたどっていっても、最後は「とにかく憎い」としか言えない場所にたどり着くことがあります。

哲学者キルケゴールは、こうした「自分の内側にしか存在しない何か」を永遠(eternity)あるいは無限性という言葉で表現しました。

「永遠」と聞くと美しい響きがありますが、彼のいう永遠は、崇高なものと同時に、狂気や破壊の可能性も含む概念です。つまり、人間の心には、誰にも理解されない「狂気の種=爆弾」がひそんでいるのです。


■ 爆弾が向かう先
自分の中の「爆弾」は、ときに他者に向かうことがあります。たとえば、自分の人生に絶望した人が自暴自棄になって、誰かを傷つけてしまうとき。

しかし、本当に闘うべき相手は「他人」ではありません。それは、自分の心の奥にすくっている“永遠”です。

他者を傷つける行為の原因は、他者ではなく、自分の中にある理解不能な何か。人は、その「永遠」と向き合う勇気を失ったとき、誤って他者に牙を向けてしまうのです。


■ 善良な市民の仮面の下に
私たちの多くは、心の爆弾が爆発しないよう注意深く生きています。「今日は仕事が嫌だから海に行ってくる」――そんな衝動をそのまま行動に移すことは、社会では許されません。

私たちは「永遠」が語りかけてくる何かを聞かないふりをして、今日も「真面目な社会人」「善良な市民」としてふるまいます。

その裏側で、誰もが小さな爆弾を抱えながら暮らしている。それが、私たちの社会の静かな前提なのかもしれません。


■ 他人の爆発を「自分と無関係」とは言えない
ニュースで誰かが犯罪を起こすと、「ひどい人だ」「家族もかわいそうに」と私たちは言います。

もちろん、犯罪は許されません。けれども、「爆発した人」を一方的に切り捨てることで、自分の中にも同じような爆弾があることを、見ないようにしているのかもしれません。

たまたま爆発しなかっただけで、私たちも同じ人間です。社会は、爆弾を抱えた人間たちが共に生きている場所なのです。


■ 爆弾を抱えて生きる勇気
私たちは皆、心の奥に小さな爆弾を抱えています。それを無理に否定するのではなく、ただ「そこに存在するもの」と自覚して生きること。

その自覚こそが、他者への理解の第一歩であり、人が人として成熟していくための哲学的な態度なのではないでしょうか。

人見アカデミー哲学コラム 
– 自分の中の「永遠」と向き合うために –

科学では解けない心の不思議 ― キルケゴール『死に至る病』から考える

私たちは、心が落ち込んだり、理由もなく不安になったりするとき、つい「脳の働きが悪いのでは」「ホルモンのバランスが崩れているのでは」と考えがちです。
確かにそれは一理あります。精神科や心理学の研究が、心のメカニズムを「科学的に」明らかにしようとする努力は尊いものです。
けれども、心のもやもやには、科学では説明しきれない部分があります。それは「意味」や「価値」といった、目に見えない領域に関わるからです。
哲学が見つめる“心の不思議”
例えば、朝日を浴びてセロトニンを増やそう、という話があります。もちろん、それは科学的にも正しい方法でしょう。でも、愛する人を失った悲しみは、セロトニンを増やしたくらいでは消えてくれません。心の奥にある「喪失の意味」や「生きる痛み」は、数値やデータでは測れない“もうひとつの心の領域”にあるのです。
キルケゴールが語った「心の病」とは
19世紀デンマークの哲学者、キルケゴールは『死に至る病』の中で、「絶望」という状態を、人間が“自分自身であること”との関係の中で説明しています。
彼によれば、絶望とは「自分であることを拒むこと」や、「自分であろうとしてもなれないこと」といった状態を指しているようです。
つまり、キルケゴールにとって“病”とは、医療で治す対象ではなく、「自分という存在への葛藤」そのものでした。鬱的な状態や自己否定の根底には、「本当はこう生きたいのに、現実の自分はそうできない」という分裂があります。
この“二人の自分”のあいだで揺れる苦しみこそが、キルケゴールのいう「心の病」です。
現代の私たちへのヒント
いまの社会は、「ポジティブに生きよう」「自分を変えよう」と励まします。しかし、哲学の立場から見ると、“変わろうとする前に、まずは見つめること”が大切です。
キルケゴールの言葉に耳を傾けると、「もやもやしている自分」もまた、生きる意味を探している途中なのだと気づきます。その気づきがあるだけで、心の重さはほんの少し軽くなります。なぜなら、それは「治す」ではなく、「理解する」ことだからです。
おわりに
心の不思議は、科学やデータでは完全に解けません。けれど、哲学の対話を通してなら、そのもやもやの“形”や“輪郭”を少しずつ見いだせます。あなたの感じている痛みも、もしかしたら「生きる意味」を探す途中なのかもしれません。
心は、治すものではなく、理解していくもの。その歩みを、哲学という灯りで、ゆっくりたどっていきましょう。

悲しみの中で見つける希望 ― 喪失と向き合う哲学的カウンセリング

大切な人や場所、時間を失ったとき、
世界が突然、色を失ったように感じることがあります。
何をしても心が動かず、
時間だけが無機質に流れていく――。

そんなとき、人は「どうすれば立ち直れるのか」を探します。
けれども、哲学の視点から見れば、
悲しみとは“立ち直る”ものではなく、“通り抜けていく”ものです。


喪失は「意味の崩壊」
誰かを失うということは、
単にその人がいなくなるという物理的な変化だけではありません。
それは、自分の世界の意味構造が崩れるという出来事でもあります。

「この人がいるから頑張れる」
「この場所があるから自分でいられる」――
そうした“世界の支え”が突然消えるとき、
私たちは何を拠りどころに生きればいいのか分からなくなります。

悲しみとは、世界との関係が一度失われること。
そしてそこから、新しい関係を結び直していく過程でもあります。


哲学が教える「悲しみを急がない」
ヴィクトール・フランクルは、強制収容所という極限状況の中でこう語りました。

「人は意味を見失うと、生きる力を失う。」

彼にとって、希望とは感情ではなく“意味の再発見”でした。
喪失の悲しみをすぐに癒やそうとするのではなく、
その出来事の中にどんな意味が潜んでいるかを問い直すこと。
それが、哲学的カウンセリングの姿勢です。

たとえば、
「なぜこの別れを経験したのか」ではなく、
「この悲しみを通して、私は何を感じ、どう生きたいと思うようになったか」。
問いの向きを変えることで、悲しみの中に小さな光が見え始めます。


「希望」とは、悲しみを否定しないこと
悲しみを消そうとすることは、自分の一部を否定することに似ています。
本当に希望が芽生えるのは、悲しみを押し込めたあとではなく、
その悲しみを自分の中に居場所をつくってあげたときです。

涙は、失った人や時間が確かに“自分の人生の中に存在していた”ことの証。
それを感じきることができたとき、
悲しみは「絶望」ではなく、「つながりの記憶」へと変わっていきます。


おわりに
喪失の痛みを完全に消すことはできません。
けれども、そこから“意味”を見いだすことはできます。

希望とは、悲しみの向こうにある光ではなく、
悲しみそのものの中に宿る静かな灯りのこと。

哲学的カウンセリングは、
その灯りを一緒に見つけていくための時間です。
あなたの悲しみの中にも、まだ確かに“生きる力”が息づいています。