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心理哲学について

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心理哲学とはなにか?

科学の心理学における心理哲学なる用語は、ハイデガーとかそのあたりの「純粋実存哲学」を指していたように記憶しています。


他方、わたしがいう心理哲学とは、キルケゴールからフロイト、ラカンへと流れる系譜をさします。


発端はキルケゴール哲学です。


より厳密には、キルケゴールのいう永遠です。


この永遠をキルケゴールは定義していないので、アカデミックな世界における永遠は、なにやらわかったようなわからないような定義がなされています。


わたしは、キルケゴールの永遠は理性と感性の両方でしかとらえることのできないものだと解釈しています。つまり学問の世界では語れないなにか。


神ではないが神につながっているなにか。

キルケゴールの永遠をこう定義したのは、哲学の大家・中島義道先生ですが、わたしは先生の意見に賛成します。



さて、そのキルケゴール哲学を、フロイトはおそらく無意識のうちに、他方ラカンはかなり勉強して意識的に受容した。


その流れを研究している大学院が、わたしの知る限りないのです。


まあ当然といえば当然でしょう。


理性と感性の両方で哲学をするなんて、日本のアカデミック業界では許されないのですから。


しかし、夏目漱石が『こころ』にばっちり書いているように、書物の学問と経験の両方から導き出される真実を、わたしは知りたい。


だから街場でひとり孤軍奮闘しています。


だって、心って理屈だけじゃないでしょう?


I remember that the term psychological philosophy in scientific psychology referred to the ``pure existential philosophy'' of Heidegger and others.


On the other hand, when I say psychological philosophy, I mean the lineage that flows from Kierkegaard to Freud and Lacan.


Its origin is Kierkegaard's philosophy.


More precisely, it is what Kierkegaard calls eternity.


Since Kierkegaard did not define eternity, eternity in the academic world is defined in a way that makes us feel like we know something.


I interpret Kierkegaard's eternity as something that can only be grasped by both reason and sensibility. In other words, it is something that cannot be talked about in the academic world.


Something that is not God but is connected to God.

The person who defined Kierkegaard's eternity this way was Yoshimichi Nakajima, a great philosopher, and I agree with his opinion.



Now, Freud probably accepted Kierkegaard's philosophy unconsciously, while Lacan studied it considerably and accepted it consciously.


As far as I know, there are no graduate schools that are researching this trend.


Well, it's only natural.


Philosophy based on both reason and emotion is not allowed in Japan's academic world.


However, just as Natsume Soseki so clearly writes in Kokoro, I too want to know the truth that can be derived from both book scholarship and experience.


That's why I'm struggling alone in the streets.


After all, the mind is not just logic, right?

自己啓発書に書いていない「自己肯定感を上げる考え方」6選

自己肯定感というものは、毎日日記を書いたから上がるものではありません。ましてや、すべてのものに感謝をしたから上がるわけでもありません。


「ダメな自分を受け入れよう。そうすると自己肯定感が上がるから」なんて馬鹿なことを言う人もいます。ダメな自分を受け入れることができないから困っている人に「ダメな自分を受け入れよう」はないだろう。


さて、自己肯定感は自分の考え方が根底から変わったときに初めて上がります。


つまり、世界が変わって見えるのと同じタイミングで自己肯定感は上がるのです。


今回は自己啓発書に書いていない自己肯定感を上げる考え方を6つご紹介します。その6つの考え方は、2000年以上続く哲学の世界で言われている確かな考え方です。天才中の天才が「ここまで考えて、ここから先は考えることができない」とした考え方、すなわち偉人たちの哲学をギュッと凝縮してお届けします。


ちなみに、私がやっている心理学アカデミーにおけるセッションでは、この6つの考え方を積極的に採用しています。


①モヤモヤを言語化する
モヤモヤというのはキルケゴールのいう「永遠」です。なんかさみしい、なんか崇高な目標を抱いてしまう、なんか現実不可能な理想を追い求めてしまう。こういうのは、あなたの心に棲みついている「神にちかい存在」と現実のこの自分との葛藤が生み出しているモヤモヤです。


②祖父母の「失敗のパターン」を思い出す
ラカンの反復強迫です。性格は隔世遺伝する。



③親子は凸凹関係だから親と自分のちがいを言語化する

ラカンの鏡像現象。



④これまでの複数の失敗から失敗のパターンを言語化する
これもラカンの反復強迫。
人は同じ失敗を何度も繰り返す。その反復に「主体は自分ではないこと」すなわち、あなたが操られているあなたの運命が見て取れるのです。



⑤自分の意思で決定したことと周囲に流されて決定したことを区別して言語化する
間主観性。



⑥まちがった因果関係を正しい因果関係に修正する
現象学(メルロー・ポンティとか)



以上の6つの考え方に共通するのは「主体は<意識=わたし>ではない」です。


では主体は無意識なのか?


いいえ、無意識というものは存在しません。


なぜか繰り返される不幸。そのパターンが、いわゆる無意識と呼ばれているものですが、それは意識であり、あなたの人生を操っている何者かです。


それを便宜的にというか意識に対抗するものとして、ほかに呼び方がないので、仮に無意識と呼んでいるにすぎないのです。ようするに主体は意識ではない。わたしたちは何者かに操られて生きている。


そのことがわかった人から、真に自己肯定感が上がり、愛され体質になれます。

わかりやすい「間主観性とはなにか」

「間主観性」でググると、たとえばこう出てきます。


以下、5文字くらい読んで「無理ぃ~」と思った方は、以下の段落をまるっと読み飛ばしてくださいね。ぼくも読むの無理なんでw


――現実は他者との言語及び非言語的関わり合いにより成立しますが、この関わり合いによって、様々な物事、事象が客観性を持つことになるのです。客観的事実と思われる事象に基づいた主観、直感を「間主観性」といいます――


理解できますか? ぼくはさっぱり理解できない。


間主観性とは、相手の出方によって自分の出方を決めることをいいます。


例えば、女子は30歳までに結婚するのが普通であって、30歳を過ぎて独身であると「いき遅れ」とか「問題のある人」と世間様がみなすから、私は29歳と11か月で大急ぎで結婚した。今の旦那とは付き合って1週間で結婚を決めてしまった。


という人がいますが、そういう人は間主観性によって結婚を決意したわけであって、あなたの意思で結婚を決意したわけではないということです。


他にも身近な例はたくさんあります。



母親が心優しく心配性で、子どもも似たような性格の場合、子は母の気持ちをよく観察していますから、結果的に母親の奴隷になってしまい、自己肯定感が下がるということになりますが、この場合、子は間主観的に生きている、すなわち、母親の振る舞いをもとに自分の振る舞いを決定しているといえます。



つまり、自己肯定感が低い人は自分のことを責めがちですが、じつはあなたのせいであなたの自己肯定感は下がったわけではないということです。


また、毒親だけが理由であなたの自己肯定感は下がったわけではないということです。



間主観性という概念が私たちに示唆しているのは、相手と自分との関係があなたの自己肯定感の高さ、低さを決定しているということです。


なので、親のことを「毒親」と呼称して責めるのは、気持ちはよくわかりますが(わたしも30年間毒親と思ってきたので)、そんなに正解に近い振る舞いではないということです。



また、自責の念が強い人は自己肯定感の低い自分を責めていると思いますが、あなたが原因なのではなくて、あなたと相手の「関係」が、自己肯定感の低さの原因ですから、そんなに自分を責めないで。



というようなことを考えた場合、さて、では、あなたはなぜ自己肯定感が低いのでしょうか?


わたしの「3か月で自己肯定感が上がって愛され体質になる心理セッション」では、そういったことを一緒に考えています。

最後が宣伝になってすみません。

自己肯定感2.0 ~新しい自己肯定感の上げ方~

これまでは、自己肯定感をたしかに高めようと思えば、心療内科に行くか、公認心理士などの心理職の人のカウンセリングを受けるのが定番でした。


しかし、実際には、それで自己肯定感が確実に高まったと思える人が少ないのが実情だと私は思います。


専門家が難しい心理学の用語を使って自分の気持ちを代弁してくれ、話を聞いてくれた結果、なんとなく自己肯定感が上がったような気がするものの、実際には3ヶ月も経てば元の自分に戻っているというのが、多くの人の実情ではないでしょうか?


私は「自己肯定感2.0」、すなわち新しい自己肯定感の上げ方を提唱しています。


すなわち座学と実践の両方で自己肯定感を上げるのです。


そもそも自己肯定感というのは、生活に基づいた何らかの気持ちのことであり、学問の心理学用語とは実は無縁なものです。


それが元々ベースにあって、それを学問的に、たとえば境界性パーソナリティー障害などと症状名にしているということです。


すなわち学問は後付けであり、まずは生活ありきです。


つまり、生活言葉で分かりやすく自分の気持ちを言えるようになること。


これが1つの自己肯定感の高め方です。


具体的には、


(1)祖父母のことを思い出すこと

(2)それを書くこと

(3)ダメな自分を解放すること


この3つが座学です。


実践というのは、実際に「こうありたい、こうしたい自分」を生きるということです。



例えば、強すぎる性欲ゆえ自己肯定感が低い女子の場合、ハプニングバーに行くのも1つの方法でしょう。仕事終わりにキャバクラでアルバイトをして年上男子に出会うのも方法でしょう。


ダメな自分、これはやってはいけないのではないのかと恐れている自分を、まるっと生きてみる。


というわけで、座学と実践の両方で自己肯定感を上げる。そんなことを私はアカデミーでやっています。


1000人以上の女子が自己肯定感が上がって愛され体質になりました。
素晴らしい生徒さんに恵まれたものだと思います。

なぜ死んではいけないのか?

ひと口に「自己肯定感の低さ」と言っても、ちょっと外に出て遊べば元気になる人もいれば、四六時中死にたいと思っておりその気持ちが何十年と続く人もいます。


僕は後者だったのでとてもよくわかるのですが、後者の人にとっては、さまざまな人の助言はほぼ何の役にも立ちません。


なぜ死んではいけないのかという問いに、この手で納得のいく答えを与えるしかないのです。


さて、なぜ死んではいけないのかという問いに、何人もの哲学者が答えを示唆しています。


例えばキルケゴール。


彼の主著『死に至る病』の冒頭には「人間とは関係が関係に関係する関係だ」と書かれています。


なんのことやらさっぱりわからないと思いますが、簡単に言えば、私たちは生まれながらにして関係の中に投げ入れられているということです。


ここでいう関係とは人間関係のことであり、かつ言語化できないなんらか不思議な存在Xとの関係の2つを指します。


人間関係については、例えば、私たちは生まれ落ちた瞬間から母親と関係を持ってしまっている。家族と関係を持ってしまっている。幼稚園の友達や先生と関係を持ってしまっている。などといったことです。


他方、言語化できないなんらか不思議な存在Xというのは、キルケゴールが言うところの永遠です。


なぜか分からないけれど、崇高な目標に思ってしまう――例えば、町の小さなピアノ教室に就職するのが精一杯という音大生がなぜか、世界的ピアニストに憧れ、私もああなりたいと渇望し、寝食を忘れてピアノの練習に打ち込む、といったような――。



簡単に言えば、私たちの心に宿る「ちょっと神がかった存在」と「肉体を持つこの私」は、なぜか、関係を持ってしまっているということです。



自ら命を絶つとは、これらの関係を自ら断つことを意味します。


それで本当にいいのか? という疑問が、「なぜ死んではいけないのか」という問いに白いYシャツのカレーの染みのように、拭い去りがたくしみついています。


関係というのは、私たちが主体的に持つものではなく、生まれながらにして持たされているものです。つまり誰のものかよくわからないものです。それを自分の手であやめてしまっていいのかという問題です。

いいのか悪いのかという問題は端的に葛藤です。

自ら関係を絶ちたい。いや、それはよくないのではないか。という葛藤。

この葛藤のことをキルケゴールは、端的に「死ねなさ」と表現しました。すなわち、「死に至る病」と表現しました。


葛藤から目をそらし、なんとなく楽しいことをしながら生きるもよし。

葛藤と真正面から向き合って「反抗のセックス」をするもよし。

岡本太郎のように、葛藤を葛藤として作品に仕上げるもよし。


といったくらいの選択肢しか、私たち人間には持ちようがないのではないでしょうか?


ただし、どの選択肢もそれなりに生きるに値するものではないかと僕は感じます。

自己肯定感の哲学的根拠

ぼくのブログはタイトルを「なんかさみしい人のための哲学入門」としているので、哲学について今回はお話します。マジメな話なので興味のない方は読み飛ばしてください。

これまでの項で述べてきたキルケゴール解釈は学問的な哲学、すなわち「ある作法にのっとって言葉を言葉で厳密に定義する世界」においては見向きもされないものです。まあ、失笑する研究者多数、というところではないかと思います。


わたしはキルケゴールの思想を生活感覚でとらえなおしています。つまり研究者たちは「スルメ」を解剖して熱心に論文をお書きになっていますが、わたしは「スルメ」を「生(なま)」に戻し、それがどうなっているのかを勉強しています。


なぜならキルケゴール哲学は、彼の「親ガチャ」にハズレた経験や、どう頑張っても好きな女子と結婚できなかった深い絶望、身体的なハンディキャップ、学業の落ちこぼれ、などから生まれているからです。つまり彼の生活のなかから生まれた思想をそのまま、頭で理解するのみならず生活感覚に戻して理解したいとわたしは考えています。


キルケゴールがその主著『死に至る病』を出版した当初、それは「素人芸」であったはずです。当時彼は、哲学の世界において有名ではなかったのです。それが彼の死後、第一次世界大戦後のドイツでヒットしたりして徐々に世界に広まり、今や西洋哲学史になくてはならないマイルストーンとして燦然と輝くまでになりました。


研究者たちは言葉で言葉を定義するのが仕事ですから、生活感覚、すなわち「なんかさみしい」を捨象します。たとえそう感じても論文に書けません。


しかし、果たしてそれでいいのでしょうか?

キルケゴールが幼少期からその全身で、親との相性の悪さにもだえ苦しみ、好きな彼女と結婚できないことに煩悶し、のたうちまわったその生き様を標本としてすなわち「スルメ」として「言葉」で論じるだけでいいのでしょうか? それで「人間」を真に理解したと言えるのでしょうか? 人間を真に理解するというのは「全身運動」であって、頭で理解しただけでは済まないはずです。

そう思いませんか?

心理学と心理哲学のちがい

心理学は、たとえば認知行動療法のように、自分の「至らない部分」を「科学」によって「矯正・調教」する学問です。

たとえば、なんでもネガティブに捉えてしまうという「至らなさ」を、科学的手法をもちいてポジティブに捉えることができるようにします。

厚紙の同じ位置を何度も折り曲げているうちに、すっと折り曲がるようになるのと同様、ネガティブな性格がやがて、どのような局面においてもポジティブになります。


しかし、科学の心理学によって矯正されない性格もあります。科学の心理学が効かない人もいます。


なぜかわかないけれど認知行動療法が効かない・・・・


心療内科のカウンセリングが効かない・・・・


キャリアコンサルタントの言うことと真逆のことをしてしまう・・・・


その「なぜ」を一緒に考え、答えを見出すことによって、科学の心理学が矯正できなかったものをどうにかするのが心理哲学です。


つまり心理哲学は矯正・調教ではありません。


一緒に「納得のいくまで」考えて、人生を「どうにかする」学問が心理哲学です。


学問と書きましたが、オンライン心理学スクールにお越しのみなさまには学問することを強制しませんので、ご安心ください。

学問的根拠にもとづいているとだけご認識ください。

セッションにおける根拠

この講座は自己啓発のような「ふわっと」したことを根拠としていません。

科学の心理学のように統計的に言えないことを捨象しているわけでもありません。

以下のことを根拠としたセッションをおこなっています。


・キルケゴール哲学(具体的には永遠概念)

・ラカンの精神分析概念(反復強迫)

・メルロー=ポンティの現象学概念(驚き!)


上記の哲学および精神分析をわかりやすく体系化したものをもとにセッションをおこなっています。

が、概念をそのままお伝えしているわけではないのでご安心ください。


どなたにも理解できるようにお伝えしています。
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