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💛 考える力・学ぶ力を育てる

「わかりやすさ」が人を弱くする ― 思考を止めない教育へ

現代は、あらゆるものに「わかりやすさ」が求められる時代です。
ビジネスでは「誰にでも理解できる資料を」、
学校では「生徒に伝わる授業を」、
メディアでは「要点を3つにまとめて解説」が美徳とされます。

もちろん、伝える努力は大切です。
けれども、わかりやすさが行きすぎると、
人は「考える力」よりも「わかる感覚」を優先してしまうようになります。


「わかった気になる」危険
わかりやすい説明には、安心感があります。
しかしその安心感が、思考の停止を招くこともあります。

「なるほど」と納得した瞬間、
私たちはそれ以上考えることをやめてしまう。
けれども、哲学の本質は“わからなさ”の中にあります。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは言いました。

「自分が何も知らないということを知っている者こそ、賢者である。」

本当の理解とは、“わからない”状態に耐える力です。
すぐに結論を出さず、
問いの中にとどまりつづけること――
それこそが、思考するという行為の核心です。


「わかりやすさ信仰」が教育をむしばむ
教育の現場では、「わかりやすく教える」ことが評価されます。
しかし、「すぐにわかる授業」=「深く考えられる授業」ではありません。

「理解できた気になる」ことと、「理解が深まる」ことは違います。
後者には、時間・苦痛・問いの反復が必要です。

にもかかわらず、効率と即効性を重んじる社会では、
教育までもが“消費されるコンテンツ”になりつつあります。
それは、思考力の育成ではなく、
「わかることへの依存」を生み出しているのかもしれません。


思考を“続ける力”を育てる
人見アカデミーでの哲学カウンセリングや読解指導では、
「すぐに答えを出さない」ことを大切にしています。

問いを急がず、曖昧なまま抱える。
わからなさの中で、自分の考えを手探りで言葉にしてみる。
その時間こそが、思考の筋肉を鍛えます。

“わかる”より“考えつづける”を選ぶ。

教育とは、知識を伝えることではなく、
“思考を持続させる力”を育てることだと私は考えています。


おわりに
「わかりやすさ」は悪ではありません。
けれども、それが人から“考える苦しみ”を奪うとき、
人は弱くなってしまう。

哲学は、わからないものをわからないままに抱えながら、
それでも問いを続ける学問です。

「すぐにわからなくても、考えることをやめない」
――その姿勢が、私たちを少しずつ強くしていくのではないでしょうか。

子どもと哲学する ― 「なぜ?」から始まる対話の力

子どもは、よく「どうして?」「なんで?」と尋ねます。
「どうして空は青いの?」「どうして勉強しないといけないの?」
――その“なぜ”の一言には、世界を知ろうとするまっすぐな好奇心が詰まっています。

ところが、大人になるにつれ、その問いはだんだん小さくなっていきます。
「どうせ答えは出ない」「考えてもムダ」
そんな言葉が、子どもたちの中の“哲学する心”を静かに閉じ込めてしまうのです。


「正解」より「問い」を育てる学び
学校教育では、正解を導くことが重視されます。
しかし、哲学の世界では、「問い続けること」こそが学びの出発点です。

たとえば、「友だちって何?」「やさしさってどこまで?」
――このような問いに、唯一の答えはありません。
けれども、子どもたちは話し合ううちに、
他人の考えを聴き、自分の考えを言葉にする力を育てていきます。


“哲学する”とは、言い換えれば、
「違いを恐れず、他者の世界に耳を傾けること」です。


「考える力」は対話から生まれる
人見アカデミーでは、哲学カウンセリングや読解講座を通して、
「答えを探すより、考えを深める」ことを大切にしています。

子どもと哲学する時間には、
「どっちが正しいか」を決めるための議論ではなく、
「どうしてそう思うのか?」をゆっくりたどる対話があります。

その過程で、子どもたちは自分の感情や思考を整理し、
同時に、他者の考えにも敬意を払う姿勢を学びます。

対話は、想像力の土壌であり、
哲学は、その土に芽吹く小さな芽のようなもの。


「わからない」から始める自由
「哲学」というと難しそうに聞こえますが、
本来は“生活の中にある考えること”です。

「わからない」を恥ずかしいと思わず、
「なんだろう?」と口にできる勇気。
そこから、子どもたちの思考はのびやかに広がります。

問いは、子どもを縛るものではなく、
自由にする力なのです。


おわりに
子どもが「なぜ?」と尋ねたとき、
すぐに答えを教える必要はありません。

「あなたはどう思う?」と問い返してみてください。
その瞬間、あなたもまた、子どもとともに“哲学する人”になります。

哲学とは、誰かに教えるものではなく、
いっしょに問いを生きること。

その体験こそが、子どもの想像力と自立心を育てるのです。

読む力は「生きる力」 ― 国語教育と哲学的読解の共通点

文章を読むことは、ただ情報を受け取ることではありません。
読むとは、他者の思考のあとをたどりながら、自分の中にもう一度世界をつくりなおすことです。

それは、日常の中で他人の言葉を理解しようとする行為と同じ。
だからこそ、「読む力」は、単なる学力ではなく「生きる力」そのものなのです。


「正解」を探す読書から「問い」を生きる読解へ
学校の国語教育では、しばしば“正解のある読解”が求められます。
「筆者の言いたいことを答えなさい」「段落の要旨を抜き出しなさい」。
しかし現実の文章は、そんなに単純に“正解”がひとつに決まるわけではありません。

むしろ、優れた文章ほど、読者の中にさまざまな問いを残します。
「なぜこの表現を選んだのだろう」「なぜこの主人公は沈黙したのか」。

哲学的読解とは、「作者の意図」を探るのではなく、
「この言葉が自分に何を問いかけてくるか」を探ること。
その姿勢こそが、“考え続ける力”を育てる読解です。


国語教育と哲学の交差点
国語教育が扱うのは言葉。
哲学が扱うのは、言葉の背後にある「意味の構造」です。

たとえば、「正義とは何か」「幸せとは何か」。
これは哲学の問いですが、文章読解の中でも同じ問いが立ち上がります。
登場人物の行動や感情の背景にある“価値”を読み解く作業は、まさに哲学的営みです。

つまり、国語と哲学は同じ根から生まれた思考の兄弟なのです。


「読む力」は他者と生きる力
他人の書いた文章を読むとは、他者の世界をのぞきこむこと。
そこでは、自分とは違う価値観や感情に出会います。

そのたびに私たちは、“自分が正しいと思っていた世界の形”を少しずつ変えていきます。
それが、読解の本当の目的。

読む力とは、他者の言葉を受けとめ、自分の世界を広げる力。
つまり、他者とともに生きる力なのです。


おわりに
点数のための読解ではなく、
“生き方を見つめ直すための読解”が、これからの教育には求められています。

読むことは、生きること。
一冊の本の中にも、あなた自身が隠れている。

そのことに気づいた瞬間、
「国語」という教科は、単なる科目ではなく“人生を学ぶ時間”へと変わります。