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💚 自分を見つけたいときに

正しさより誠実さを ― 自分軸を取り戻すための小さな哲学

私たちは日々、無数の「正しさ」に囲まれて生きています。
マナー、常識、効率、正解、SNSでの“正しい意見”……。
それらはどれも、社会を秩序づける大切な基準かもしれません。

けれども、気がつけば私たちは、
「正しいかどうか」ばかりを気にして、
「誠実であるかどうか」を忘れてしまうことがあります。


「正しさ」は外側から、「誠実さ」は内側から
「正しさ」とは、社会や他人がつくったルールのこと。
一方で、「誠実さ」は、自分の内側にある静かな感覚です。

たとえば、誰かに謝るとき。
「謝るべきだから謝る」というのが正しさ。
「自分の心が納得するから謝る」というのが誠実さ。

どちらも似ているようで、根っこがまったく違います。
正しさは他人の基準で測られますが、
誠実さは自分の内側の声に耳を澄ませることから始まります。


正しさに疲れてしまう人へ
「ちゃんとしなきゃ」「失敗してはいけない」「人に迷惑をかけてはいけない」――。
そうした“正しさの呪縛”のもとで、
自分を責め続けている人は少なくありません。

けれども、それはあなたが怠けているからでも、弱いからでもありません。
むしろ、他人の気持ちを想像できるほど誠実だからこそ、疲れてしまうのです。

社会の正しさと自分の誠実さがぶつかるとき、
多くの人は「自分のほうが間違っている」と感じます。
でも、哲学的に言えば、
そこにこそ“自分軸を取り戻すための入口”があります。


哲学が教える「誠実さ」という勇気
フランスの哲学者メルロ=ポンティは、
「人間は世界に根ざした身体的存在である」と語りました。
つまり、私たちは“世界の一部”として、
その瞬間瞬間を誠実に生きることしかできないのです。
それは、常に正しくあろうとするよりも、
「いま、何を感じ、どう生きたいか」に耳を傾けること。
誠実さとは、他人を裏切らないことではなく、自分を裏切らないことです。


おわりに
正しさは、社会を守ります。
でも誠実さは、あなた自身を守る力です。

誰かの期待に合わせる前に、
まず自分の心に「本当はどうしたい?」と問いかけてみてください。

正しさは変わっても、誠実さはあなたの中に残ります。

その小さな声を聞き取ることができたとき、
あなたはすでに“自分軸”を取り戻し始めています。

性欲と孤独の哲学 ― 「なんか寂しい」気持ちを抱えて生きるということ

性行為というのは、ひとつの身体表現です。
つまり、言葉では語れない心の動きを、身体というかたちで表現しようとする営みです。
メルロ=ポンティは、心=脳と身体はそれぞれ独立して世界を感知していると語りました。
その考えに私も深く共感します。

性欲が強いということは、「頭では処理できない感情を、身体がなんらかのかたちで表現したがっている」
ということでもあります。
誰の中にもそうした衝動はあり、それ自体は決して悪ではありません。


寂しさに敏感な人の性欲
性行為の頻度が高い人には、大きく分けて二つのタイプがあるように思います。
ひとつは、「なんか寂しい」という気持ちに敏感な人。
もうひとつは、「社会的に勝ち組でありたい」と強く思う人です。

前者は、寂しさを癒やすために他者との身体的つながりを求めます。
「誰かと一緒にいることで、この寂しさが埋まるのではないか」と感じるからです。
けれども、その行為のあとにふと訪れる虚しさは、
実は“寂しさそのもの”が消えたわけではないことを教えてくれます。

それは、性行為という行為が「つながり」ではあっても、
「理解」ではないからです。


「勝ち組」幻想にとらわれる人
もうひとつのタイプ――
すなわち、「性的な魅力=社会的価値」と無意識に結びつけてしまう人。
このタイプの人は、性を自己表現ではなく、競争の指標として使う傾向があります。

「いい体」「モテる」「ステータス」――そうした外的な基準の中で、
“勝ち負け”を測ろうとしてしまう。
そこには、精神的な価値観への鈍感さが潜んでいます。

メルロ=ポンティが言う「身体の意味」は、
単なる物質ではなく“生きた意識”そのものでした。
つまり身体とは、他者との関係を通じて自己を表現する“哲学的な場”でもあるのです。
それを数値化し、見栄や競争の道具にしてしまうことこそ、
現代社会の大きな孤独のかたちといえるでしょう。


性欲と孤独をどう生きるか
性欲に振り回されて苦しむ人の多くは、
この「寂しさに敏感な人」です。
なぜ敏感なのか――それは、生まれもった気質や、
人生で受けた心の傷が影響しているのかもしれません。

けれども、その敏感さは同時に、
他者の痛みにも気づける豊かな感受性でもあります。
だからこそ、寂しさに敏感な人ほど、
その感受性を「表現」ではなく「理解」に向けることが大切です。


おわりに
私たちは皆、寂しさや欲望を抱えながら生きています。
それを否定するのではなく、
「これは私という存在のひとつの表現なのだ」と静かに受け入れてみる。
そのとき、性欲はただの衝動ではなく、
“自分を知るための鏡”へと変わっていきます。

寂しさを持つあなたは、欠けているのではない。
ただ、感じる力が人より少し豊かなだけなのです。
性と孤独を通して、自分を少しずつ理解していく――
それこそが「生きる哲学」であり、人見アカデミーの目指す心の探求です。

生きづらさは悪くない ― 葛藤が教えてくれること

「どうしてこんなに生きづらいのだろう」
そう感じたことはありませんか。

他人と比べて落ち込んだり、
感情の波に自分で疲れてしまったり、
小さな出来事に心が揺れて眠れない夜を過ごしたり――。

生きづらさは、誰にでも訪れます。
けれども、それはあなたが“弱いから”ではありません。
むしろ、敏感に世界を感じ取る力があるからこそ、その痛みに気づけるのです。


「生きづらい」は、心のセンサーが働いている証
人はみな、生きるためにある種の“鎧”をまとっています。
「頑張らなきゃ」「こうあるべきだ」という言葉が、私たちを守ってくれる一方で、
その鎧が重くなりすぎると、息苦しさが生まれます。

そのとき現れるのが“生きづらさ”です。
それは、あなたの心のセンサーが「そろそろ本当の自分に戻って」と
静かに知らせてくれているサインです。

哲学的にいえば、生きづらさは自己と社会のあいだの葛藤。
どちらかが悪いわけではなく、
その葛藤そのものが“成長の兆し”なのです。


葛藤は「変わりたい」という心の動き
キルケゴールは、人間の絶望を「自分を理解できない苦しみ」と呼びました。
けれども同時に、その絶望こそが「新しい自分へ向かう出発点」でもあると説いています。

生きづらさとは、心が“もうひとつの自分”に気づいた瞬間。
たとえば、「もっと素直に生きたい」と感じるとき、
その裏には「今の生き方では苦しい」という、正直なサインが隠れています。

葛藤とは、心が“成長の方向”を指し示しているときに起きる、
一時的な痛みのようなもの。
それを否定する必要はありません。


哲学的に「生きづらさ」を見るということ
哲学的カウンセリングでは、
生きづらさを「治すべき問題」としてではなく、
“意味を問い直す機会”として捉えます。

「なぜ私はこれに苦しむのか?」
「この感情の奥には、どんな願いがあるのか?」

その問いをたどっていくと、
痛みの中にも小さな“希望の形”が見えてくることがあります。
それは、心が「ほんとうの生」を求めている証です。


おわりに
生きづらさは、あなたの中の感受性が生きている証拠です。
それを抑え込むのではなく、静かに観察してみてください。
葛藤の中にこそ、あなたが変わろうとしているサインが隠れています。

生きづらさは、あなたが“生きている”という確かな手触り。

それを感じられる人は、実はとても強い人です。
人見アカデミーの哲学的カウンセリングは、
その「強さの芽」を一緒に見つけていく場所です。

「自分を理解する」とは何か ― 哲学的カウンセリングの出発点

私たちはよく「自分を理解したい」と言います。
けれども、その“自分”とはいったい誰のことなのでしょうか。
自分を客観的に見つめようとするとき、
同時に「見ている自分」と「見られる自分」が現れます。
――つまり、私たちは常に“二人の自分”を抱えて生きているのです。


自己分析では届かない領域
現代では「自己理解」や「自己分析」という言葉が流行しています。
SNSの性格診断やビジネス書の自己啓発ワークなど、
“自分を知る”方法は世の中にあふれています。

けれども、哲学の立場から見ると、
それらは多くの場合、「観察可能な自分」しか扱っていません。
つまり、行動パターンや性格傾向、感情の癖――
「データ化された自分」だけを分析しているにすぎないのです。

本当に理解すべき“自分”とは、
そうした結果の背後にある、「なぜ自分はそう感じるのか」という
根っこの部分ではないでしょうか。


哲学的カウンセリングとは、「自分との対話」
哲学的カウンセリングは、
問題を「治す」ためではなく、「理解する」ための営みです。
その中心にあるのが、“自分との対話”です。

たとえば、誰かに対して怒りを感じたとき、
「なぜ私は怒っているのか」と考えることはできます。
しかし、その「なぜ」を突き詰めていくと、
やがて“怒り”そのものではなく、
「本当は理解されたい」「認められたい」という
もっと深い感情に行き着くことがあります。

それは、理性ではなく“存在そのもの”にかかわる問いです。
哲学的カウンセリングは、まさにその領域に光をあてる営みです。


対話が「鏡」になる
人は、自分ひとりでは自分を理解できません。
なぜなら、自分の中にある矛盾や盲点を、自分では見抜けないからです。
他者との対話は、その盲点を映し出す“鏡”のような役割を果たします。

哲学的カウンセリングでは、カウンセラーが答えを与えるのではなく、
問いを投げかけることによって、あなた自身の思考を引き出します。
「私はなぜこう感じるのか」「なぜこの選択をしてしまうのか」――
その問いを繰り返すうちに、あなたの中の“もう一人の自分”が語り出すのです。


おわりに
「自分を理解する」という営みは、
“完成された答え”を見つけることではありません。
むしろ、“問い続けること”そのものが理解の始まりです。

自分とは、問いかけ続ける存在である。

哲学的カウンセリングは、その静かな問いを支えるための場所です。
自己分析では届かない“心の奥の声”を聴く――
そこから、あなたの「ほんとうの理解」が始まります。