人見アカデミー|自分軸をつくる哲学カウンセリング・自己理解スクール

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💚 自分を見つけたいときに

【自分軸の核心】“永遠”とは因果を超えた力──「こうすればああなる」を捨てると、人生は静かに動き出す

心理学や自己啓発では、
「こうすれば、ああなる」
「原因がこれだから、結果はこう」
という 因果の発想 が重視されます。

もちろん、これは間違っていません。
日常のほとんどは、原因と結果で説明できるからです。

しかし、人間の内面の“いちばん大切な部分”は、
この因果の枠組みからこぼれ落ちます。

たとえば──

なぜか前向きになれる日がある。
なぜか許せる瞬間が来る。
なぜか希望がわいてくる。
なぜか、消えていた光を思い出す。

この 「なぜか」 は、因果では説明できないものです。

キルケゴールはこれを
「永遠」
と呼びました。

永遠とは宗教的な言葉ではなく、
時間に束縛されず、原因では説明できない“決断の源” のこと。

私たちをどこかへ導いていく、不思議な力です。

■ 1:主体は「意識」ではない

多くの人は、主体=意識だと思っています。

・自分の考えていること
・自分の欲求
・自分の計画
・自分の意志

しかしキルケゴールの洞察は、もっと深く鋭い。

主体とは、因果で説明できない何かである。

意識は、表面に出てきた“説明された思考”にすぎません。
でも、人を動かしているのは、そのさらに奥にある
説明しきれない領域=永遠。

だから、私たちはしばしばこう感じます。

「本当は、自分でもよく分からない何かに動かされている」

これは間違いではなく、
むしろ人間の本質です。

■ 2:「こうすればああなる」という発想を捨てる

原因と結果の世界に慣れすぎた私たちは、
つい人生にも同じ式を当てはめます。

・努力すれば報われる
・愛を与えれば愛が返る
・挑戦したら成長する
・正しいことをすれば、正しい結果になる

しかし人生の深い領域は、決してこうは動きません。

だからこそ重要なのは、
「こうすればああなる」という因果的な思考を、

一度そっと脇に置くこと。

すると、心の奥で別の問いが立ち上がります。

「本当のところ、わたしは何を考えているのだろう?」
「私は、どこへ向かいたいのだろう?」

この問いこそが自分軸の始まりです。

■ 3:知的好奇心の先にある“崇高な光”を措定する

自分の内面に向き合うとき、
人はしばしば暗闇に立たされます。

・正解がない
・自分の本音がつかめない
・何がしたいのかわからない
・迷いが消えない

この暗闇を歩くために必要なのが、
“崇高な光がどこかにあるはずだ”といったん仮定すること です。

これは信仰ではなく、
人間が前に進むために必要な“存在の前提”。

キルケゴールは
「人間は、可能性に向けて歩く存在」
と言いました。

光があると完全に信じる必要はない。
ただ、「ある」と一度措定すると、
知的好奇心がその光へ向かって動き出します。

好奇心は、見えない未来に手を伸ばす力。
これこそが、因果を超えて人を動かす原動力です。

■ 4:自分を育てる

これは「内面の育て方」そのものです。

・因果の発想を離れる
・本音を丁寧に聴く
・知的好奇心を手放さない
・可能性に光を措定する
・説明できない“永遠の動き”に身を委ねる

こうして、自分を少しずつ「育てていく」。

自己啓発のように「自分を変える」ではなく、
もっと静かに、もっと深く、
自分が育っていく。

これが「自分軸」を形づくる本質です。

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■ 5:そんなふうに他者を育てる

この方法は
他者を育てる力(支援の技法) にも直結します。

相手を因果で決めつけない。
“原因”から相手を分析しない。
表面的な意識の言葉をそのまま信じすぎない。
その人の内側にある“永遠の動き”を信じる。
好奇心が向かう方向に目を凝らす。

これこそが
本当の意味で他者を育てるスキル
です。

支援とは、
問題の原因を説明することではなく、
その人の“可能性に向かう動き”を見逃さないこと。

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■ 6:ここに「自分軸」の核心がある

因果の世界から少し離れ、
因果で説明できない“永遠の働き”を感じられるようになると、

・他者の評価に揺れない
・自分のペースで選べる
・本音がはっきりしてくる
・焦らなくてよくなる
・自然にやりたいことが見えてくる
・静かに誇りが育つ

つまり、
自分軸を生きられるようになる。

自分軸とは、
意識の力で作るものではなく、
永遠と好奇心のあいだに育つ“内側の柱”です。

■ まとめ

✔ 永遠とは因果で説明できない、人を導く力
✔ 主体は意識ではなく、「永遠」から動く
✔ 「こうすればああなる」という因果思考をいったん捨てる
✔ 本音の問いを立てる
✔ 好奇心の先に、崇高な光があると措定する
✔ そうして自分を育て、他者を育てる
✔ これこそが自分軸の核心

因果の鎖を静かにほどいたとき、
私たちは初めて“自分という存在”を育てる旅に出られます。

【不登校でも大学受験は間に合う】 ―探究心が“誇りを持てる場所”へあなたを導く―

近年、「不登校でも勉強は間に合うのか?」「大学受験は不利なのか?」という相談を多くいただきます。結論から言えば、不登校でも大学進学は十分に可能です。そしてその鍵となるのが、私はいつも「知的好奇心=探究心」だと考えています。

不登校になる理由は本当にさまざまです。人間関係の不安、メンタルの不調、環境の変化、あるいは理由が説明できない心の重さ……。けれど私は、多くの不登校の生徒を見てきて確信しています。不登校は“終わり”ではなく、自分の人生を立て直す出発点になりうるということです。

人見アカデミーと人見読解塾が大切にしているのは、無理に学校へ戻すことでも、形だけの勉強を詰め込むことでもありません。まずは、心の中に小さく灯る“問い”を大切にすることです。好きな本を読んでいるとき、ふと気になったニュースを調べているとき、授業で「なぜ?」と考えたとき――その瞬間、目の奥に光が宿る。探究心とは、この内なる光のことを指します。

そして私は、必ず生徒に伝える言葉があります。

「人は自分に誇りを持てる場所にいるべきだ。」


勉強や進路選びにおいて、これは最重要の指針です。学校に行けるかどうかよりも、「ここにいる自分が好きだ」「この学びは自分を誇らしくする」と感じられる環境に出会えることの方が、はるかに人生を前へ進めます。

さらに私はこう考えています。陰から誇りを持てる場所、すなわち光を追い続けること。そこに真の希望があります。たとえ今が“陰”のように感じられても、誇りを持てる場所=あなたが光を感じられる場所へ向かって一歩ずつ進むことで、人生は必ず変わります。

実際、人見アカデミーには、不登校の期間が長かったにもかかわらず志望大学に現役合格した生徒が数多くいます。共通していたのは、他者との比較ではなく、自分自身の探究心を育て続けてきたことです。不登校の期間は決してムダではありません。深く考え、自分と向き合ってきた経験そのものが、学力の土台になります。

また、誇りを持てる“居場所”に出会うとメンタルは整います。「ここなら自分らしく学べる」「この学びが好き」と思えた瞬間、人は驚くほど表情が変わります。勉強が動き出し、生活が整い、自己肯定感が戻ってくる。不登校だった生徒が探究心を軸に大学進学を実現したのを、私は何度も見てきました。

私は、生徒一人ひとりの“知的な芽”を育てることを仕事にしています。成長の速度は人それぞれですが、方向をまちがえなければ必ず伸びていきます。たとえメンタルが不安定でも、小さな探究心という光が灯っている限り、進むべき道は見え続けます。

不登校でも大学受験はできる。不登校でも未来はひらける。
あなたが自分に誇りを持てる場所へ辿り着けるように。
その伴走者であること――それが、人見アカデミーと人見読解塾の役割です。

あなたの価値とはなにか──「役に立つ」を超えて、生きる意味を取り戻すために

「自分には価値があるのか」
「この仕事に価値はあるのか」
「私の存在に意味はあるのか」

こうした問いは、不登校の子から社会で働く大人まで、年齢を問わず誰からも寄せられます。
そしてこの問いは、あなたが思っている以上に深い。
哲学、心理学、社会学、経済学……。どの領域でも避けて通れないテーマです。

けれど、専門的な議論を横に置いてしまえば、価値とは驚くほどシンプルな話です。
そして同時に、とても人間らしい話でもあります。

この記事では、あなたが今日から「自分の価値」を感じられるようになるために、価値という概念を丁寧にほどいていきます。


■1 価値を狭く捉えすぎていませんか?

多くの人が「価値=役に立つこと」と考えています。

仕事で成果を出せば価値がある

成績が良ければ価値がある

誰かに喜ばれれば価値がある

そして逆に、

失敗すると価値が下がる

迷惑をかけると価値がない

誰にも必要とされないと存在価値がない

こう思い込んで、自分を責め続けてしまう。

でも、それは “価値の扱い方” を間違えているのです。

本来、価値はもっと広くて、もっと深い。

まずは価値の「三つの層」を知りましょう。


■2 価値の三層構造
① 主観的価値

これは 「あなたが大切だと感じるもの」 の価値。
他の誰かの評価とは無関係です。

日々書き続けているノート

朝の10分の読書

誰にも見せない絵

推しがそこにいるだけで救われる感覚

これらは、あなたの人生にとって大きな価値を持っています。
たとえ他人から見れば「どうでもいい」ことであっても。

価値の出発点は、いつもあなたの内側にある。

② 交換価値(社会的価値)

これは 「社会がつけた値段」 のことです。

給料

市場価格

評価・成績

私たちが普段「価値」と呼んでいるものの多くは、この交換価値。

もちろん、社会で生きるうえで必要です。

でも、あなたの人格の価値とはまったく別物です。
世の中の数字があなたの全存在を決めることはない。

③ 存在価値

これは あなたが存在しているだけで生まれる価値。
もっとも深く、もっとも見落とされやすい価値です。

そこにいると安心できる

何もしていないのに救われる

あなたの不完全さが誰かの共感を呼ぶ

存在そのものに価値がある。
交換価値や成果とは一切関係ない、“唯一者としてのあなた”の価値。

キルケゴール風に言うなら、

価値とは、世界にひとりしかいないあなたのあり方そのものの尊さ。


■3 自分の価値を感じられないのは「基準」が間違っているから

「私には価値がない」
そう感じるとき、ほとんどの場合、基準が 交換価値に偏りすぎています。

うまくできた

役に立った

褒められた

こういう“条件つきの価値”で自分を測ってしまう。

でも、あなたが本当に求めているのは
「存在しているだけでよい」
という基準ではないでしょうか。

人は誰でも、条件つきの愛のなかでは生きられません。


■4 あなたの価値は「誰かの可能性を開く力」

ひとみしょう式のまとめをすると、
価値とはこう表現できます。

「あなたの存在が、誰かに“可能性”を思い出させる力」

あなたの一言で救われる人がいる

あなたの生き方で勇気をもらう人がいる

あなたの痛みが、誰かの痛みの理解につながる

これは市場価値では測れないし、数字では表せません。
でも、人が最も必要としているのは、この価値です。


■5 価値は「つくるもの」ではなく「気づくもの」

あなたはすでに価値を持っています。
何かを達成したときに価値が生まれるのではなく、
生きている瞬間から価値はあふれています。

今日も呼吸している

今日も生きている

存在が誰かの中で光になっている

価値とは、あなたの生そのもの。

だからどうか、今日くらいは、
自分の“存在価値”をゆるやかに抱きしめてください。

正しさより誠実さを ― 自分軸を取り戻すための小さな哲学

私たちは日々、無数の「正しさ」に囲まれて生きています。
マナー、常識、効率、正解、SNSでの“正しい意見”……。
それらはどれも、社会を秩序づける大切な基準かもしれません。

けれども、気がつけば私たちは、
「正しいかどうか」ばかりを気にして、
「誠実であるかどうか」を忘れてしまうことがあります。


「正しさ」は外側から、「誠実さ」は内側から
「正しさ」とは、社会や他人がつくったルールのこと。
一方で、「誠実さ」は、自分の内側にある静かな感覚です。

たとえば、誰かに謝るとき。
「謝るべきだから謝る」というのが正しさ。
「自分の心が納得するから謝る」というのが誠実さ。

どちらも似ているようで、根っこがまったく違います。
正しさは他人の基準で測られますが、
誠実さは自分の内側の声に耳を澄ませることから始まります。


正しさに疲れてしまう人へ
「ちゃんとしなきゃ」「失敗してはいけない」「人に迷惑をかけてはいけない」――。
そうした“正しさの呪縛”のもとで、
自分を責め続けている人は少なくありません。

けれども、それはあなたが怠けているからでも、弱いからでもありません。
むしろ、他人の気持ちを想像できるほど誠実だからこそ、疲れてしまうのです。

社会の正しさと自分の誠実さがぶつかるとき、
多くの人は「自分のほうが間違っている」と感じます。
でも、哲学的に言えば、
そこにこそ“自分軸を取り戻すための入口”があります。


哲学が教える「誠実さ」という勇気
フランスの哲学者メルロ=ポンティは、
「人間は世界に根ざした身体的存在である」と語りました。
つまり、私たちは“世界の一部”として、
その瞬間瞬間を誠実に生きることしかできないのです。
それは、常に正しくあろうとするよりも、
「いま、何を感じ、どう生きたいか」に耳を傾けること。
誠実さとは、他人を裏切らないことではなく、自分を裏切らないことです。


おわりに
正しさは、社会を守ります。
でも誠実さは、あなた自身を守る力です。

誰かの期待に合わせる前に、
まず自分の心に「本当はどうしたい?」と問いかけてみてください。

正しさは変わっても、誠実さはあなたの中に残ります。

その小さな声を聞き取ることができたとき、
あなたはすでに“自分軸”を取り戻し始めています。

性欲と孤独の哲学 ― 「なんか寂しい」気持ちを抱えて生きるということ

性行為というのは、ひとつの身体表現です。
つまり、言葉では語れない心の動きを、身体というかたちで表現しようとする営みです。
メルロ=ポンティは、心=脳と身体はそれぞれ独立して世界を感知していると語りました。
その考えに私も深く共感します。

性欲が強いということは、「頭では処理できない感情を、身体がなんらかのかたちで表現したがっている」
ということでもあります。
誰の中にもそうした衝動はあり、それ自体は決して悪ではありません。


寂しさに敏感な人の性欲
性行為の頻度が高い人には、大きく分けて二つのタイプがあるように思います。
ひとつは、「なんか寂しい」という気持ちに敏感な人。
もうひとつは、「社会的に勝ち組でありたい」と強く思う人です。

前者は、寂しさを癒やすために他者との身体的つながりを求めます。
「誰かと一緒にいることで、この寂しさが埋まるのではないか」と感じるからです。
けれども、その行為のあとにふと訪れる虚しさは、
実は“寂しさそのもの”が消えたわけではないことを教えてくれます。

それは、性行為という行為が「つながり」ではあっても、
「理解」ではないからです。


「勝ち組」幻想にとらわれる人
もうひとつのタイプ――
すなわち、「性的な魅力=社会的価値」と無意識に結びつけてしまう人。
このタイプの人は、性を自己表現ではなく、競争の指標として使う傾向があります。

「いい体」「モテる」「ステータス」――そうした外的な基準の中で、
“勝ち負け”を測ろうとしてしまう。
そこには、精神的な価値観への鈍感さが潜んでいます。

メルロ=ポンティが言う「身体の意味」は、
単なる物質ではなく“生きた意識”そのものでした。
つまり身体とは、他者との関係を通じて自己を表現する“哲学的な場”でもあるのです。
それを数値化し、見栄や競争の道具にしてしまうことこそ、
現代社会の大きな孤独のかたちといえるでしょう。


性欲と孤独をどう生きるか
性欲に振り回されて苦しむ人の多くは、
この「寂しさに敏感な人」です。
なぜ敏感なのか――それは、生まれもった気質や、
人生で受けた心の傷が影響しているのかもしれません。

けれども、その敏感さは同時に、
他者の痛みにも気づける豊かな感受性でもあります。
だからこそ、寂しさに敏感な人ほど、
その感受性を「表現」ではなく「理解」に向けることが大切です。


おわりに
私たちは皆、寂しさや欲望を抱えながら生きています。
それを否定するのではなく、
「これは私という存在のひとつの表現なのだ」と静かに受け入れてみる。
そのとき、性欲はただの衝動ではなく、
“自分を知るための鏡”へと変わっていきます。

寂しさを持つあなたは、欠けているのではない。
ただ、感じる力が人より少し豊かなだけなのです。
性と孤独を通して、自分を少しずつ理解していく――
それこそが「生きる哲学」であり、人見アカデミーの目指す心の探求です。

生きづらさは悪くない ― 葛藤が教えてくれること

「どうしてこんなに生きづらいのだろう」
そう感じたことはありませんか。

他人と比べて落ち込んだり、
感情の波に自分で疲れてしまったり、
小さな出来事に心が揺れて眠れない夜を過ごしたり――。

生きづらさは、誰にでも訪れます。
けれども、それはあなたが“弱いから”ではありません。
むしろ、敏感に世界を感じ取る力があるからこそ、その痛みに気づけるのです。


「生きづらい」は、心のセンサーが働いている証
人はみな、生きるためにある種の“鎧”をまとっています。
「頑張らなきゃ」「こうあるべきだ」という言葉が、私たちを守ってくれる一方で、
その鎧が重くなりすぎると、息苦しさが生まれます。

そのとき現れるのが“生きづらさ”です。
それは、あなたの心のセンサーが「そろそろ本当の自分に戻って」と
静かに知らせてくれているサインです。

哲学的にいえば、生きづらさは自己と社会のあいだの葛藤。
どちらかが悪いわけではなく、
その葛藤そのものが“成長の兆し”なのです。


葛藤は「変わりたい」という心の動き
キルケゴールは、人間の絶望を「自分を理解できない苦しみ」と呼びました。
けれども同時に、その絶望こそが「新しい自分へ向かう出発点」でもあると説いています。

生きづらさとは、心が“もうひとつの自分”に気づいた瞬間。
たとえば、「もっと素直に生きたい」と感じるとき、
その裏には「今の生き方では苦しい」という、正直なサインが隠れています。

葛藤とは、心が“成長の方向”を指し示しているときに起きる、
一時的な痛みのようなもの。
それを否定する必要はありません。


哲学的に「生きづらさ」を見るということ
哲学的カウンセリングでは、
生きづらさを「治すべき問題」としてではなく、
“意味を問い直す機会”として捉えます。

「なぜ私はこれに苦しむのか?」
「この感情の奥には、どんな願いがあるのか?」

その問いをたどっていくと、
痛みの中にも小さな“希望の形”が見えてくることがあります。
それは、心が「ほんとうの生」を求めている証です。


おわりに
生きづらさは、あなたの中の感受性が生きている証拠です。
それを抑え込むのではなく、静かに観察してみてください。
葛藤の中にこそ、あなたが変わろうとしているサインが隠れています。

生きづらさは、あなたが“生きている”という確かな手触り。

それを感じられる人は、実はとても強い人です。
人見アカデミーの哲学的カウンセリングは、
その「強さの芽」を一緒に見つけていく場所です。

「自分を理解する」とは何か ― 哲学的カウンセリングの出発点

私たちはよく「自分を理解したい」と言います。
けれども、その“自分”とはいったい誰のことなのでしょうか。
自分を客観的に見つめようとするとき、
同時に「見ている自分」と「見られる自分」が現れます。
――つまり、私たちは常に“二人の自分”を抱えて生きているのです。


自己分析では届かない領域
現代では「自己理解」や「自己分析」という言葉が流行しています。
SNSの性格診断やビジネス書の自己啓発ワークなど、
“自分を知る”方法は世の中にあふれています。

けれども、哲学の立場から見ると、
それらは多くの場合、「観察可能な自分」しか扱っていません。
つまり、行動パターンや性格傾向、感情の癖――
「データ化された自分」だけを分析しているにすぎないのです。

本当に理解すべき“自分”とは、
そうした結果の背後にある、「なぜ自分はそう感じるのか」という
根っこの部分ではないでしょうか。


哲学的カウンセリングとは、「自分との対話」
哲学的カウンセリングは、
問題を「治す」ためではなく、「理解する」ための営みです。
その中心にあるのが、“自分との対話”です。

たとえば、誰かに対して怒りを感じたとき、
「なぜ私は怒っているのか」と考えることはできます。
しかし、その「なぜ」を突き詰めていくと、
やがて“怒り”そのものではなく、
「本当は理解されたい」「認められたい」という
もっと深い感情に行き着くことがあります。

それは、理性ではなく“存在そのもの”にかかわる問いです。
哲学的カウンセリングは、まさにその領域に光をあてる営みです。


対話が「鏡」になる
人は、自分ひとりでは自分を理解できません。
なぜなら、自分の中にある矛盾や盲点を、自分では見抜けないからです。
他者との対話は、その盲点を映し出す“鏡”のような役割を果たします。

哲学的カウンセリングでは、カウンセラーが答えを与えるのではなく、
問いを投げかけることによって、あなた自身の思考を引き出します。
「私はなぜこう感じるのか」「なぜこの選択をしてしまうのか」――
その問いを繰り返すうちに、あなたの中の“もう一人の自分”が語り出すのです。


おわりに
「自分を理解する」という営みは、
“完成された答え”を見つけることではありません。
むしろ、“問い続けること”そのものが理解の始まりです。

自分とは、問いかけ続ける存在である。

哲学的カウンセリングは、その静かな問いを支えるための場所です。
自己分析では届かない“心の奥の声”を聴く――
そこから、あなたの「ほんとうの理解」が始まります。