私とは何か ――定義しすぎないという選択
「私とは何か」。
この問いは、多くの場合、すぐに答えが与えられてきました。
心理学では「自我」や「自己概念」として、自己啓発では「自分軸」や「本当の自分」として、私という存在は説明されます。
それらは役に立つ場面もあります。
しかし同時に、「私」をわかりやすく定義しすぎてしまう危うさも含んでいます。
私は、この問いに対して、あえて別の立場を取ります。
私とは、他者との関係である
私の第一の主張は、
私とは他者との関係であり、他者との関係としてしか存在しない
ということです。
この考え方に対しては、「主体性が失われるのではないか」という反論があります。
しかし、私たちの感情や思考は、実際にはほとんどが他者との関係の中で動いています。
誰かの言葉に安心し、誰かの態度に傷つき、誰かの沈黙に不安を覚えます。
それにもかかわらず、「本当の私は関係に左右されないはずだ」と考えることは、
現実の自己像から目を背けることになりかねません。
私を関係として捉えることは、責任を曖昧にすることではありません。
むしろ、自分がどのような関係の中で、どのように振る舞っているのかを引き受けるための視点だと考えています。
私は、自分でも理由のわからないことを考えている存在です
第二の主張は、
私とは、自分でもなぜそれを考えているのか分からないことを、考えてしまう存在である
ということです。
心理学や自己理解の文脈では、感情や思考を言語化し、整理することが重視されます。
それは大切な営みです。
しかし、人の思考のすべてが言葉になるわけではありません。
理由は説明できないけれど、なぜか引っかかる問い。
意味は不明でも、頭から離れない違和感。
そうしたものを、「説明できないから価値がない」と切り捨ててしまうと、
思考は次第に浅くなっていきます。
私とは、完全に理解された存在ではありません。
むしろ、理解できなさを抱えたまま考え続けている存在なのだと思います。
わかりやすさよりも、問いが残ること
ここで、「それでは日常を生きる指針にならないのではないか」という疑問が生まれるかもしれません。
確かに、迷っているとき、人はわかりやすい答えを求めます。
自己啓発が提示する明確な定義は、
混乱している人に一時的な足場を与えてくれます。
ただ、そのわかりやすさは、ときに考えることを終わらせます。
「私はこういう人間だ」と言い切れた瞬間、問いは閉じてしまうからです。
私がここで提示しているのは、
すぐに使えるマニュアルではありません。
けれども、問い続けるための土台です。
私を定義しすぎないということ
私とは、
他者との関係の中で揺れ、
理由のわからない問いを抱え、
まだ言葉になりきらない思考の途中にある存在です。
それは、不安定で、効率も悪く、わかりにくい。
しかし、その未完性こそが、人を考え続けさせます。
私を急いで定義しないこと。
わからなさを無理に解消しないこと。
関係から切り離された「純粋な私」を想定しないこと。
その先で、結果として立ち上がってくるものこそが、
私にとっての「私」なのだと考えています。