哲学で心を見つめるオンラインカウンセリング|人見アカデミー【公式】

MENU

🩷 人間関係に悩んだら

なぜ「わかってもらえない」と感じるのか ― 承認欲求の哲学

私たちは、誰かに「わかってほしい」と願いながら生きています。それは自然な欲求であり、人間関係の原動力でもあります。

けれども、その願いが満たされないとき、胸の奥に「孤独」「怒り」「無力感」が広がっていきます。

SNSのいいねの数、職場での評価、恋人や家族からの共感。それらが思うように得られないと、まるで自分の価値が否定されたように感じてしまう。この*「わかってもらえない苦しさ」の正体を、哲学の視点から見つめてみましょう。


承認欲求は“生きる証”
ドイツの哲学者ハーバーマスは、人間の社会的存在を「対話の中で形成されるもの」と捉えました。私たちは他者との関係を通じてしか、自分という存在を確かめられません。つまり「承認されたい」という思いは、単なるわがままではなく、“存在を確かめたい”という深い欲求なのです。

他人の言葉やまなざしが、自分の存在を輪郭づけてくれる。だからこそ、承認をまったく求めずに生きることは、人間にとってほとんど不可能なのかもしれません。


“正しさ”より“共感”を求める時代に
アメリカの哲学者マイケル・サンデルは、現代社会を「承認が競争化する時代」と呼びました。

SNSや仕事、学歴や肩書き――私たちは日々、“誰がより多く認められているか”を暗黙のうちに比べ合っています。しかし、サンデルはこう問いかけます。

「成功した人は本当に“努力したから”成功したのか?」

この問いの背景には、“努力が足りない人”を無意識に下に見る社会構造への警鐘があります。承認が「比較」や「序列」と結びつくとき、人は他人を見下すか、あるいは自分を責めるようになります。


“わかってもらえない”という痛みの意味
誰かに理解されないとき、私たちは深く傷つきます。けれども、その痛みは同時に、「自分が何を求めているか」を知るためのサインでもあります。

「なぜ、あの人にだけはわかってほしかったのか」
「わかってもらえないことで、何が一番苦しかったのか」

そう問い直していくと、“承認”を求めていたのではなく、“理解”や“共感”を求めていたのだと気づくことがあります。つまり、「承認されたい」と「わかってほしい」は似て非なるもの。前者は社会的な欲求、後者は存在的な願い――それが哲学の見方です。


おわりに
「わかってもらえない」という感情は、あなたが誰かと“つながりたい”と強く願っている証でもあります。その願いを恥ずかしいと思う必要はありません。むしろ、それがあるからこそ人は他者と語り合い、世界をつくり出すことができるのです。

哲学は、承認を求める心を否定しません。ただ、それがどこから生まれ、どこへ向かおうとしているのかを見つめ直させてくれます。

「わかってもらえない」と感じたとき、それはあなたの心が、他者と世界を信じている証なのです。

「優しさ」がつらいとき ― 他者との境界線を引く勇気

あなたは、人に優しくしようとして疲れてしまうことはありませんか。「相手を傷つけたくない」「嫌われたくない」と思うあまり、自分の気持ちを抑え込み、あとでどっと疲れが出る――そんな経験。

優しさは本来、他者を思いやる美しい心の働きです。けれども、その優しさが“つらさ”に変わる瞬間があります。それは、自分と他人の境界線が曖昧になったときです。


“気を使いすぎる”というやさしさの罠
人に合わせすぎて疲れてしまう人の多くは、「相手の感情を先読みしすぎる」傾向があります。自分の中で勝手に「こうすれば相手は喜ぶだろう」と想像し、それを優しさだと思って行動してしまう。

でも、それはしばしば“相手の気持ち”ではなく“自分の不安”から生まれています。「嫌われたくない」「関係を壊したくない」という不安が、あなたの優しさの形をすこし歪めてしまうのです。


哲学が教える「他者との距離感」
フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは、他者と向き合うことを「無限な責任」と呼びました。他者の顔を見た瞬間に、私たちはその存在を傷つけないように注意を払う。それが“倫理の始まり”だと彼はいいます。

けれども、レヴィナスの言う責任は“無限に尽くすこと”ではありません。むしろ、「相手と自分を混同しない」という線引きの上にこそ、ほんとうの優しさが成り立つのです。

心理学ではこれを「心理的境界線(バウンダリー)」と呼びます。健全な境界線を持つということは、「相手を大切にしながらも、自分も大切にする」ということです。


関係を壊さずに心を守る方法
境界線を引くとは、相手を遠ざけることではありません。それは、「ここから先は自分の領域」という静かな合図のようなもの。

たとえば、無理な頼みを引き受けそうになったときに、「ごめんなさい、今は少し余裕がないの」と言葉にしてみる。たったそれだけでも、関係は壊れず、むしろ“誠実さ”が伝わります。


人間関係を続けるうえで大切なのは、相手を思いやることと同じくらい、自分を尊重する勇気です。優しさは、他者への贈りものと同時に、自分への責任でもあるのです。


おわりに
優しすぎる人ほど、自分を責めてしまいます。「もっと頑張らなきゃ」「私が我慢すればいい」と。でも、その優しさがつらくなったときは、どうか思い出してください。

ほんとうの優しさとは、相手を大切にするように、自分も大切にすること。

境界線を引くことは、冷たさではなく、愛のかたちのひとつです。哲学は、その勇気をそっと肯定してくれます。

孤独と自由 ― “ひとり”をどう生きるか

「孤独が苦しい」と感じたことは、誰にでもあるでしょう。
友人関係がうまくいかないとき、
恋人と別れたあと、
あるいは、まわりに人がいても、どこか満たされないとき。

私たちは「ひとりでいること」に、どこかネガティブな印象を持っています。
しかし、哲学の世界では、孤独は人間が自由であるための条件としても語られてきました。


“孤独=悪いこと”という思い込み
現代社会では、孤独はしばしば「避けるべきもの」とされます。
SNSのつながりが数で可視化される時代、
“孤立”と“孤独”の違いさえ見えづらくなっています。

でも、孤独とは「誰もいない」ことではなく、
“自分と深く向き合うための静かな時間”のことです。
そこには、痛みと同時に、創造と発見の可能性がある。

孤独を恐れるのではなく、
孤独の中で何が生まれるかを見つめ直す――
それが、このコラムのテーマです。


哲学者たちが見た「孤独」
フランスの哲学者アランは、

「孤独は、人が自分を見出すために必要な場所である」

と述べました。

デンマークのキルケゴールもまた、
“群衆の中に紛れること”を恐れました。
彼にとって「ひとりで神の前に立つ」ことこそ、
“本当の自分”と出会う瞬間だったのです。

また、ハイデガーは「死の自覚」を通して、
他人の価値観に支配されない“自己存在”の重要性を説きました。
これらの哲学者たちに共通するのは、
孤独を「人間の不全」ではなく「自由への入り口」と見る姿勢です。


孤独の中から生まれるもの
孤独の時間に、私たちは自分の“本当の声”を聴くことができます。
それは、他人の期待や社会のノイズにかき消されがちな小さな声です。
しかし、その声こそが、創造や生き方の原点になります。

絵を描く人、音楽を作る人、文章を書く人。
彼らは孤独の時間の中で、自分と世界をつなぐ糸を探します。
孤独は、何もない空白ではなく、
新しい自分が生まれる「余白」なのです。


おわりに
孤独を完全になくすことはできません。
でも、それは悪いことではありません。
むしろ、孤独を抱えながら生きることが、
人間に与えられた“自由の証”なのかもしれません。

孤独とは、誰もいない場所ではなく、
自分を取り戻すための静かな部屋のようなもの。

その部屋で、自分と語り合う時間を少しずつ大切にしていく――
そこから、あなたの「自由」が始まります。